読書感想文「ごんぎつね」

新美南吉 ごん狐 - 青空文庫

 まず最初が良い。一段落めで、語り手が伝聞であることを明かす。二段落めは、背景説明。三段落めになると、「私」が消え「ごん」が現れる。四段落めで、物語が始まる。五段落め、「ごんは、ほっとして穴からはい出ました」。語りがごんに寄り添う。ズームインしてピントを合わせる、流れるようなカメラワーク。

 それに対して終わりの引きは急だ。最後の場面、ここまでごんに寄り添っていた語りが急に転回し、「兵十は、ふと顔をあげました」。ここから兵十の決断は早い。狐を認めると、「ようし。」の一言ですぐに発砲する。最初のなめらかさと、最後の唐突さ。いきなり撃たれたという印象がごんへの同情を誘う。かわいそうなごん! 償いに来たことが伝えられさえすれば! 兵十さん厳しすぎ!

 しかし兵十が撃ったのは充分に合理的な行動だった。それはもちろんごんが撃たれて当然のことをしたからではない(そういう感想は作品に書かれていることを読んでいない。ごんは撃たれて当然といえるようなことは何もしていない)。兵十の母が死に際にウナギを求めたのかどうかは定かではない。それはごんの想像である。ウナギリリースと兵十母の死は関係があるとはいえず、ごんが感じる罪の意識は狐の勝手な妄想である。ごんは加害妄想傾向の強い狐なのだ。

 ごんがウナギをリリースしたのは事実だが、これも撃たれて当然の罪などではまったくない。この世界における魚泥棒への報復基準はイワシの場面で既に明らかにされている。兵十自身が体験したように、それはほっぺたに「かすり傷」がつく程度ですむ話なのである。兵十がごんを撃ったのは、母の仇だからではなく、窃盗犯だからでもない。たんにごんがキツネだったからだ(家にキツネが入ったら、特に恨みなどなくとも撃つ可能性はある。「こないだうなぎをぬすみやがった」という記憶は後押しにすぎない)。ごんが撃たれたのはひとえにキツネだったからで、その存在自体が原因であって行為のせいではない。だからこそ兵十の発砲はいたましく、そして正当である。彼は悪行に報いたのではない、有害鳥獣を駆除したのだ。

 いや、ごんは本当にキツネなのか?

 第一場面にはこうある。「その中山から、少しはなれた山の中に、『ごん狐』という狐がいました」。「ごん狐」という「狐」がいたとある。確かにそう書かれている。ところが、「狐」という日本語は、動物の「キツネ」を指すとは限らないのである。辞書!

きつね【狐】
1 イヌ科の哺乳類。体長45~90センチ、尾長30~55センチ。……
2 人をだます、ずるがしこい
(『デジタル大辞泉』)

 このことを念頭に置くとこの小説はたいへん面白く読める。先の続き。「ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました」。村八分にされ、見捨てられた孤児が、森の中で生きていた。「そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました」。食べるために村に出てきて畑を荒らす。「小狐」という言い方がやや苦しいが、やっていることは「人」であっても無理はないし、その行いから「狐」と呼んでも差し支えあるまい。放火とはいかにも人間的なふるまいではないか。

 ここではごんが人であったと主張したいのではない。ごんが人であったかもしれない、と考えられるところが、この作品を面白く読むことにつながったところだと言いたいのである。ごんが獣とも人ともいえる=どちらともつかない存在であるという傍証はある。この作品には短い中に魚に関する場面が二つ出てくる。例のウナギリリースの場面と、イワシスチールの場面である。この二つを比べる。まずウナギリリース。「ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました」。ここまでは人でもありうる。次からが面白い。

一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。……ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。

 ウナギを咥えてその頭を噛み砕く! これは人の所業ではない。明らかに獣である。この「うなぎの頭をかみくだき、」という描写は作中随一の生々しさで印象に残り、だから次のイワシスチールとの差を際立たせる。

ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向むかってかけもどりました。

 籠の中からイワシを掴み出して走っていき、家の中に投げ込む。繰り返すが、手にイワシを持って走っている。これはどう考えても直立二足歩行であり、人の仕業だ。〈ウナギ〉と〈イワシ〉の二つの魚場面で、ごんの行為が〈獣〉の所業から〈人〉の仕業に変わっている。この二つの場面の間には、兵十母の葬式がある。ごんは兵十母の葬列を墓地の地蔵の影に隠れて待った。地蔵とはもちろん人型の像である。その人型の影に入ることで(この後ごんは兵十の「影法師」にも入る)、そして「ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった」といかにも「人間的」な反省をすることで、両義的な狐は〈人〉度を上げている。

 最後の場面で、兵十はごんを撃った。先に見たように、それは相手がキツネだったからだ。そうでなければあの決断の速さはありえない。しかし兵十にとってはキツネであった彼は、読者にとっては〈獣〉と〈人〉が重なった両義的な狐である。しかもこの狐には、作中を通して〈人〉度を上げる操作がなされている。そういう存在を兵十は殺していいものと判断し、撃った。こういうふうに考えてみると、この場面は、「殺していいと思って撃った相手が、よく考えてみると自身と同じ人間だったかもしれない」という悔悟を伴う気づきを、テキストの鑑賞を通して体験しうる場面だと解釈できるのである。兵十とは人類の罪を背負って十字に架かるツワモノなのだ。

 ここに至って私は深く感動した。


文章中の引用は以下から。引用中の強調は筆者による。
新美南吉 ごん狐 - 青空文庫

(暫定)「ラブライブ!」2期記事のまとめ

第二アイドル速度「ラブライブ!」2期第9話

 この回が特別であることは冒頭でわかる。妹は2階にいる姉に声をかけた:「いよいよ今日だね、最終予選!」。これまで各話の作中時間は2~3日、比較的端正な時間配分でお話を進めてきた。だが今回は最初からライブ当日だ。天候は「Snow halation」らしく雪。2年組はこの雪のせいでライブ会場に行けなくなりかける。このピンチは一般生徒の雪かき支援によって乗り越えられる。生徒の言葉が象徴的だ:さあ、走って。音ノ木坂のみんなで作った道を!。ファンが道を作り、アイドルがその道を走る……。……こんなそれっぽい出来事を描いているのに、映像の印象は何かヘンだ。いきなり吹雪、大げさな音楽、メンバーたちは思いを叫んで大号泣。これは寒い、雪だけに。この、いわゆる「感情移入」を拒むかのような映像は、いったいどうしたことか?

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この映像を見て主人公と一体化して泣くのは難しい。「感情移入」云々は作品のおもしろさとは全く関係ないが、それを拒むような映像であったことは覚えておく。/絵里に抱きついて感動的なことを言った後に鼻水を出して茶化す。この鼻水はあってよかった。なかったらもっとキツかった。

 2期9話の雪は、「ファンが道を作り、アイドルがその道を走る」ことの材料になっていたが、ではなぜ走ったのは2年組だけだったのか? お話としては、もちろん生徒会の仕事=学校説明会の挨拶で、2年組が学校に行っていたからだ(OP後の最初のシーンで絵里が妙に丁寧に説明してくれる)が、これでどんな効果が出たか。説明会の挨拶は、相当に強いオーダーのようで、穂乃果は電話で「理事長は説明会を欠席してもいいって言ってくれてるんだけど、そういうわけにもいかないし……と言っていた。困り顔で「そういうわけにもいかないし」と言うところからは、愛校心や責任感よりも、やむを得ない事情にあたってしまった苛立ちを感じる(だから直後の電話は怒り気味に取る。絵里が意味のない電話を掛けたから穂乃果の苛立ちが見える)。ライブに遅れるのも学校のためならば仕方がない。穂乃果たちは理事長よりも強い力=学校によって引き止められている。

 当たり前のことのようだがこの事実は重い。1・3年組を先行させ、2年組を「生徒会の仕事」で別行動にしたことで、学校がμ'sにとっての障害であるかのように見えてくるからだ。この見立ては校舎前の一般生徒とのやり取りでさらに固まる。生徒の雪かきを手伝おうとした穂乃果はこう言われる:「穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ。この作品をちゃんと見ているのなら決して聞き流すわけにはいかない言葉。端的に言ってこの認識は間違っている。穂乃果たちは学校のためにラブライブに出ているわけではない。特に2期は確実にそうではない。2期1話でラブライブに再エントリーすることを決めたとき、「学校のため」という理由はまったく語られなかったし、今回海未やことりや穂乃果がそれぞれの思いを叫ぶ段でもそのような言葉はない。生徒は「ラブライブ」と「生徒会」を「学校のため」という目的において並列に語ることで、「生徒会」より「ラブライブ」を優先する選択肢を封じている。「学校のため」という殺し文句で、2年組を拘束している。穂乃果たちは学校のせいでライブに行けないのだ。

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学校とライブは背反的な関係にある。穂乃果たちは雪かきを手伝おうとして、ライブ当日だからという理由で拒否されている。今度は逆に、ラブライブのせいで学校の仕事ができない。/例の雪のシーン、2年組は大変な苦労をしていたが、雪に足止めされていたのは学校の敷地内に限られる。学校の境界線を超えると、雪は弱まった。会場に行くのが大変だったというよりは、学校から出るのが大変だったと見える。今回の学校はジャマ者だ。

 さて先述の生徒たちは続けてこう言っていたのだった:「穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ。だから、今日は私たち助ける番。私たちも協力したいから。私たちだけじゃない、みんなもだよ」。作品全体でも最大級の引っかかりを残す特別なセリフだ。これを展開する。生徒は穂乃果たちの音ノ木坂への働きを認め、だから私たちは協力する、と言っている。「私たち」の雪かきは、穂乃果たちの「音ノ木坂」への貢献に対する見返りなのだ。ここで生徒は「音ノ木坂」と「私たち」を同一視している。「私たち」とは雪かきに参加している「みんな」のことであり、要するにμ'sの支援者=ファンのこと。そう考えると、この生徒の発言は、アイドルとファンの関係についての認識を語ったきわどい言葉にも聞こえてくる。強引に翻訳すれば……穂乃果たち=μ's=アイドルは、音ノ木坂=私たち=ファンのために活動してきてくれたでしょ。だから、今日はファンが助ける番」。ここに見えるのは、(1)アイドルはファンのために活動している、(2)ファンのための活動とファンの支援は交換される、という認識。これが私たち=音ノ木坂のアイドル論だ。なんと現実的!

 この後、穂乃果たちは閉じこめられていた学校から脱出し、会場まで走る。生徒たちの協力のおかげでライブには間に合った。お話的にはまったく喜ばしいことだが、これまで書いてきたような視点に立てば、ここでは2期全体にかかわる決定的なことが起こっているように見える。2期9話において、学校は穂乃果たちを拘束する障害であった。このことを意識すると、「穂乃果たちが学校から出て行った」という事実が、彼女たちが「学校」という存在あるいは「学校のために」というマジックワードの拘束から抜け出した、と読み換えられるからである。のみならず、彼女たちのダッシュは、アイドルとファンの関係についての「音ノ木坂」的認識、すなわち「ファンあってこそのアイドル」という認識からも逃れ出る象徴的な走りとも見えてくる。これは革命的な事態である。2期9話の「音ノ木坂からの脱出」は、μ'sから、「ファン」という、アイドルに宿命的に課せられた拘束をも解除するものだったのである。その「走り」を、2期9話は露悪的に大げさな映像で写し取った。視聴者の「感情移入」を拒む映像は、彼女たちが「ファン」という拘束から解き放たれた証なのだ。

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吹雪がやみ、学校と公道の境界上から、穂乃果は生徒たちを見る。雪は道を遮ると同時に、視界を遮るものでもあった。雪が弱まり、視界が晴れたから、生徒たちの姿が見える。同様に、生徒たちは走る彼女たちを見ることができようになる。こうして「『ファンが作った道をアイドルが走っているところ』をファンが見る」構図が成立する。/生徒は学校を背負って立つ。何ともおそろしい。

 そして、さらに驚くべきことに、2期9話では、穂乃果たちの学校からの脱出において決定的な力となったのが、他ならぬ一般生徒だったことが描かれているのである。ここでファンのための活動とファンの支援を交換する現実的な期待は決定的に崩れ去る。μ'sに対する支援は、彼女たちが学校から脱出するための加速に、ファンから離れていくための推進力に使われている。ライブ直前の場面でも、穂乃果は「学校のために歌う」とは一言も言わない(「学校が好き」とは言うが、好きなだけである)。もちろん、「みんなのために歌う」とも、「ファンのために歌う」とも言わない。彼女たちは好きなものを(心中で(!))列挙してから歌う。その言葉は観客の耳には届かない。観客たちはパフォーマンスから「ありのままの気持ち」を推察するしかない。ファンは何ら特権的な見返りを得ていない。ただパフォーマンスを見ることができるだけである。そこにはまっとうな壁がある。

 今回、音ノ木坂の生徒は「ファンが作った道をアイドルが走る」場面を目撃している。この作品はファンとアイドルの関係を慎重に(あまり関係ないものとして)扱ってきたように見えていたから、はっきり言って出しゃばり過ぎに感じたし、違和感の残るところだったが、2期9話で生徒たちがやっていたことは、単なる「支援」ではなかったのである。雪かきの生徒は言った、「来たよ、全校生徒が」。しかし雪かきに参加しなかった音ノ木坂の生徒は少なくとも9人いる。「音ノ木坂」や「全校生徒」といった不用意な一人称は、9人のアイドルを他者として学校から排除する。「全校生徒がμ'sを支援する」という形をとった時点で、μ'sは音ノ木坂の生徒ではない。困難を乗り越えて「Snow halation」を歌ったことで、彼女たちはファンとは「違う世界の人」になってしまったのである。そのとき、彼女たちは「感情移入」の外に行く。私たちは彼女たちの涙を共有することができない。彼女たちは学校から出て、私たちが理解できる範囲の外に行ってしまったからだ。そして、このことは、他ならぬファンの力で成し遂げられた。アイドルとファンが最接近したとき、両者は決定的に別れたのだ。

 学校という要素を意識すると、彼女たちの存在にかかわる本質的なことが語られているような気がしてくる、というのがこの作品の仕掛け(というほどのものでもないが)。先を見通せば、スクールアイドルという設定と学校という時間空間的拘束の緊張のようなものは、この先で問題になっていることではある。作中、穂乃果がライブ会場にまだ来ていないと言われたツバサは、「今日のライブで、この先の運命は決まる」と言っていた。2期9話のライブが転換点だとすれば、それは物語展開だけの問題ではないと見える。

穂乃果たちが走り出す瞬間、下り階段で加速する動きは、映像では捉えられていない。欲しいところだった。

ホワイトカラーダイエット「ラブライブ!」2期第7話

 7話には大きく分けて二つのお話がある。主に前半、穂乃果の体重の話と、主に後半、生徒会の予算の話。穂乃果のダイエットはなかなかうまくいかないが、もう一つのお話=生徒会の問題が最後に一件落着すると、体重の問題も同時に解決される。問題は、一見この二つのお話がうまく繋がっていない、というか、ほとんど結びついていないように見えることだ。中盤のランニングシーンは動きがあって印象的だが、生徒会のお話が進むと画面は動きを失っていき、最後は居残りの書類整理で全てが解決されてしまうのである。残業デスクワーク! ホワイトカラー的非活動が画面からおもしろみを奪う。こんな流れで「成長できてるんだと思う」(ことり)といい感じにまとめられても、それは思うことがない。

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冒頭の紙はペラ一枚だが、次の生徒会室では書類が積み上がっている。重さの可視化。/中盤では穂乃果に直に書類の束を持たせる。当然、穂乃果の重さは増える。体重と生徒会問題の接続。

 では7話はなぜこんな構成になっているのか? ここで印象的だった例のランニングシーンを入口にしてみよう。穂乃果がダイエットすることになったあと、部室では花陽がわざとらしくオニギリを食べていた。ここから7話は、花陽も体重が増えていたということで、二人が組になってダイエットへ、と展開していく。例のシーンは、穂乃果と花陽が「ご飯屋」に入るかどうか、ランニングしながら吐息とジェスチャーで会話しているのがギャグ的でおもしろみがあったわけだが、しかし花陽は次のシーンで「元の体重まで戻りました」と言われて、あっさりダイエットから離脱してしまう。その後の展開にも特に絡むことがない(このことも7話の印象を散漫にしている)。では花陽はなぜ出てきたのか?

 花陽が出てきたことでどんな効果があったのか? 例のランニングで、二人は吐息で会話をしながらも頑なに足を止めない。二人の動きはほとんど同じであり、ほぼ同一の運動をしている。となれば、逆に二人の違いに注意が向く。二人の違いは、まさに花陽がダイエットから離脱してしまったこと、つまり運動の結果として明確に表れている。Bパート最初の結果発表で、海未は次のように宣告する。「まずは花陽、運動の成果もあって、なんとか元の体重まで戻りました。しかし穂乃果、あなたは変化なしです」。運動の結果、花陽は元に戻り、穂乃果に変化はなかった。この差は何か? 

 海未と穂乃果の会話では、穂乃果が隠れて間食していたことが追及されるが、画面上にその間食は現れていなかった。というか、7話では、穂乃果は散々食事のことを言われながらも、最後にパンを食べ(ようとす)るまで、モノを食べる描写が全くない。7話で食べる描写といえばむしろ花陽のほうで、オニギリを食べるところは繰り返しの動きもあって妙に印象が強かった。この食べる描写の有無、つまり体重が増えた原因が明確に描かれているか否か。これが二人の違いと見える。花陽はあのデカいオニギリを食ったから太った。これはカロリーの問題である。よって運動して燃やせば元に戻る。それに対して穂乃果はモノを食べていない。だから運動しても元に戻らない。そういえば穂乃果本人も「毎日あんなに体動かして、汗もかいてるでしょ? まさかあそこまで体重が増えているとは……」と不思議がっていた。さらに、穂乃果は身長が変わっていないという事実がある(穂乃果の身長はなぜか二回も言及があって、変化がないことが強調されている)。ということは、穂乃果の体重増加は、肉体の変化によるものではない

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花陽は穂乃果に「仲間」と言われて目を逸らす。二人は同じ「ダイエット組」に見えるが、実はそうではない、ということ。彼女は決して米好き設定で引っ張られてきただけではない。/二人は同じ動きをする。同じ運動量だが、結果は違った。/最後のシーンも食べずに終わる。食べたのか曖昧なままカットするのもそれらしい。

 では穂乃果の重さは何なのか。今回、穂乃果の重さはどのように表されていたか? 序盤の生徒会室のシーンで、穂乃果はファーストライブの衣装を着せられることで「現実」を知る。衣装が入らなかったという想像を誘われるが、ここで「穂乃果の身に何が起こったのか」(海未)は、本当のところは見えないからわからない。直後、ことりが「体重は増えたかもしれないけど、見た目はそんなに変わってない」と言いかける。これは全くその通りで、穂乃果の見た目は変わっていないように見えている。衣装は入らなかった(らしい)が、見た目はそんなに変わっていないという、微妙な体型の差に穂乃果の重さがある。重さと見た目(肉体)の関係が危うくなる。

 次の操作は屋上のシーン。練習中、生徒が唐突にサインを求めてくる。ここのやり取りは、生徒「実は私、園田先輩みたいなスタイルに憧れてたんです」、海未「そんな、スタイルだなんて……」。体型のことを「スタイル」と言い換えて二度言わせる。ここで「スタイル」という言葉を置いているから、少し先の神社のシーンでまたこの言葉が出てきたときに引っかかる。神社に集まったメンバーが、ネット上で自分たちのことが褒められているのを見る、という流れで、希が「どうやら今までどおりの自分たちのスタイルでいって、正解やったみたいやね」と突っ込んでくる。この「スタイル」は当然「型」とか、もっと言えば「在り方」とかいう意味で使われている。「スタイル」の意味が「体型」からずらされる。そのことに意識がいったところで、すかさず凛が「最終予選も突破してやるにゃー」と言ってくる。そしてトドメは絵里「それまでに、二人にはしっかりしてもらわないとね

 以下展開。希のスタイル発言は、当然、前回6話の内容を汲んだもの。ありのままの自分たちで闘う決意をした、というのは問題ない。では直後の「最終予選も突破してやるにゃー」という凛の発言はどうか。振り返れば、2期は1話のラストで「優勝を目指そう!」と穂乃果が宣言したことから始まった。だから凛の言葉は2期のμ'sの一貫したスタイル=在り方を示す直接的なセリフと取れる。この凛は2期μ'sのスタイルに準拠している。さて今回、穂乃果はファーストライブの衣装から自身の「現実」を知ったのだった。このファーストライブをやったのは1期3話(半年くらい前)である。つまり穂乃果は2期7話の自分を1期3話の自分と比較して認識する経験をしたことになる。ということは、この経験をもって、穂乃果は自分の「スタイル」を1期の頃と比較して見る視点を得ていると見える。そしてこの時点で1期まで遡って自身の在り方を認識する視点を持っているのは、おそらく穂乃果だけなのである(だから「最終予選も突破してやる」と言っている2期μ'sの人たちに、「しっかりしてもらわないと」と言われてしまう)。2期1話に準拠したμ'sに対して、穂乃果にとっての戻るべきスタイルは1期3話の在り方であり、有り体に言えば初心のこと。そこからのズレが、スタイル=体型=重さの差になって表れた。7話の穂乃果の重さとは、2期1話の自分が規定してしまった、2期μ'sの在り方の重さなのである。

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衣装のシーン、穂乃果はよほどショックだったのか、涙を浮かべて「ごめんみんな、今日は一人にさせて……」と漏らす。これを言ったとき、穂乃果の周りには海未とことりの二人しかいなかった。そういう状況で「みんな」という言葉を選択している。自分以外の8人に向けた言葉。/結果発表のシーンで、海未は「本当にラブライブに出たいと思ってるのですか!?」と凄み、穂乃果は「当たり前だよー!」と返す。穂乃果と2期μ'sの微妙な距離感。これを見た凛は「穂乃果ちゃんのこと、嫌いなのかな……」とかなり頭の悪そうなことを言っているが、何か違和感を受けていたのだとすれば鋭い。/予算会議で、にこが「生徒会以外」の一人として描かれるいいカット(後述)。「無い袖は振れません!」が意味するところは言わずもがな。

 ここまで来れば7話終盤の動きのなさも妙に説得的に見えてくる。最後のところ、穂乃果の体重はどうして元に戻ったのか。本人は「3人で一生懸命がんばってたら、食べるの忘れちゃって」と説明していたが、もちろんここで重要なのは、食べるのを忘れたことではなく、「3人で一生懸命がんばってた」のほう。Bパートは、最初の結果発表のシーンの後は、2年組の生徒会の仕事を追う。だから画面は動きを失い、前半と繋がりを欠いているように見えた。しかしこのこと自体、すなわち生徒会の仕事をやっていたこと=μ'sの活動をしなかったこと、海未とことりと3人で何かを一生懸命やっていたことが、そのまま「戻ってた」ということになるのである。μ'sの9人の枠組みからの離脱の意志はなかなか徹底していて、3年生ふたりの支援を断るのはもちろんこの流れの中にあり、ダメ押しで矢澤にこが「アイドル研究部部長」として生徒会=3人と相対する場面がある。「私たち」という言葉の使い方にも変化がある。こんな感じで7話を見返せば、穂乃果の初心から微妙に離れてきてしまった2期μ'sの「現実」を体重問題に乗せて語る、緊張漂うテクニカルな回として見直すこともできる。

補 9人組からの離脱と「私たち」
・生徒会室で3年組の協力を断るシーンは、μ'sの9人の枠からの離脱の意志がよく見えた。穂乃果は絵里と希に協力を提案されながらも私たちで何とかしなきゃ、ダメなんじゃないかな」と断る。ここで「私たち」は2年組の3人に限定されていて、その場にいる絵里と希は入っていない。希が「自分たちのスタイル」と言っていたように、μ'sとして語るときには当然9人を指すが、ここでは違った。
・予算会議でのにこの登場もポイント。「アイドル研究部の部長」として生徒会の3人の前に出てくることで、3人を完全にその枠外に出す。「どうしてここに?」「当たり前でしょ? アイドル研究部の部長よ、私は」というやり取りがいい。このとき穂乃果はアイドル研究部員としての自分を持っていない。だが、にこが議事進行に協力的だったのは、やや甘い。

I've『THE TIME ~12 Colors~』



 新旧ボーカル大集合がコンセプトということで、収録12曲は、ボーカル12人が1曲ずつ、コンポーザー6人が2曲ずつという構成。バラけていて良い。全曲オリジナルなのも良い。特に、3、7、10、12が良い。

 その中でも7→8の流れが面白い。7の「Stardust Train」は高瀬一矢とKOTOKO。真打ち感がある。で、8の「Hydrangea」がNAMIとLarval Stage Planning。新しい感じがする。時の流れを感じる。長い前奏と間奏+Cメロが印象的な7に対して、ほとんど隙間なくボーカルが入る8。人間が歌ってる気がしない(匠の技!)7に対して、歌詞の言葉がよく聞こえる8。違いがわかる。でも、確かに、なんだか両方I'veっぽい。そういう感じがするから、I'veっぽいって具体的にはどういうことなんか、とか、どういうところに惹かれてるのか、とか、そんなことを思わせる。

 受ける印象。音が多い。重ねまくる。なんか複雑。サイケな打ち込み。デジタルな繰り返し。背後に人間がいない感じ。でも、曲を聞き終わると、そういう要素への印象はあまりなくなる。パーツひとつひとつの存在感は消える。埋もれる。パーツ自体は印象を持たない。切った音があからさまに組み上がっている、構成されているのがわかるのにバラせない、でも打ち込みだから人間が音を出し合って構成しているわけではない……。この感じ。こういう感じが好きだ。この点、Stardust Trainは、凄く複雑という印象はなくて、むしろパーツが比較的聞こえやすい気がしながら、しかしバラせない、曖昧な全体に際どくとどまっている感じがした。だから、良いと思った。

 逆に、Hydrangeaは、パーツの音が聞こえてくる。これが質の善し悪しなのかどうかわからないが、要素に還しやすいというか、あ、いま音鳴らしたな、という感じがしてくる。部分が全体からハミ出ている感じがするところがある。ボーカルも、少なくとも前の曲よりは歌詞がよく聞こえる。人間が言葉を喋っている気がする。(Youtubeに上がっているラジオで、作編曲のNAMIが「ボーカルは素晴らしい楽器だと思った」みたいなことを言っている。簡単にボーカルを楽器扱いするところがクールで面白い。ボーカルは人間であって楽器ではない)。でも音が重なる感じはI'veっぽい。……2曲が並んでいるからこんな感想が出てきた。

 全曲オリジナルなのも良い。I'veの曲は編曲が一番聞きたいところだと思っている。編曲は作詞作曲には先立たないはず。曲が無いとできないんだから二次的なことだが、しかしそれが一番の勘所。エロゲー曲から始まったというのがまたそれらしい。言いたいこととか歌詞の根拠とかは外から持ってきて作っている。でも作品に紐付いた曲は(特に歌詞の内容が)作品を指向しているわけだから、それ自体に意味がなくても何かを指す機能がどうしても強く残る。思い切ってわかりやすく言えば、メッセージ性が強すぎる。でもボーカルを楽器扱いして編曲で聞かせる曲には、先立つものは無くていい。一周回って、オリジナルのほうが味が出る。そういう意味では、ガールズコンピレーションのコンセプトも良い。誰々のアルバムでは無い。出自不明の曖昧な曲が並ぶのがいい。

 ……とにかく、Stardust Trainが妙に気に入った。これまでのI've曲の中でもベスト付近。