『双面偶像』

 中国アイドルGNZ48の劇場公演。公演タイトル『双面偶像』は、字の通り「二つの顔をもつアイドル」といったところか。全16曲構成、最後の1曲はエンディング的な曲で、それを除いた15曲の真ん中(8曲目)に、タイトル曲が来る。これがたいへん構成的で、分解欲をそそられた。
#8 双面偶像



00:00 前奏。音も動きも深刻な雰囲気。音に合わせてカメラが切り替わり、登場人物を8人映す。狭い画角とスポット照明で、人物が左右交互にフェードアウトしていくように見える。全員が出たところでカメラが引き、舞台中央でフォーメーションを組んでいたことがわかる。Aメロが始まる。

00:35 1コーラス目。顔を隠したり、背中合わせで並んだりする動きと、それをトレースする後ろのビジョンの映像が、タイトル「双面」 とのテーマ的な関連を匂わせる。01:00の斜めアングルがわかりやすいが、後ろのビジョンには、舞台上の人物が鏡に映っているテイの映像、つまり「鏡像」が映っている。

01:17 サビに入るとカメラは全体を捉える。全員が並んでこちらに進んでくることで、こちらとあちらの前後の対称がより意識されてくる。01:28付近、立体的なフォーメーションの演者と、平面の鏡像との対照を見せてくれるのが良い。テーマに引きつけてみれば、両者は「実体/鏡像」という物理的な対称にとどまらず、「実像/虚像」という、偶像の双面として現れているように見えてくる。
密集するところを寄りで捉えるのも的確。01:47あたりで、ビジョンの映像が、振り返るタイミングや向きまで忠実にトレースするいやに凝った映像であることに気づかされるが、ここまでしつこく鏡像の関係を結んだからこそ、その対称が破れることが意味を持つ。

02:01 1コーラス目の終わりで事態が展開する。少し見えにくいが、「多少人躲在镜子背后(鏡に何人隠れているの)」の歌詞のところで、後ろの鏡像が振り返り、こちらに向き直っている。実体=実像に従属していたはずの鏡像=虚像が勝手に動いている! 実体のほうはその後に振り返って向き合うが、この動きによって実体と鏡像の関係は反転してしまう。実体のほうが鏡像の動きをトレースしたことになるからである。両者が手を合わせるところで、ビジョンの表面が割れて、鏡像が黒の人物に変わる。虚像はこちらの鏡像であることをやめる。
手を合わせる動きは、この後も展開の鍵として用いられる。照明が暗くなるのも効果的で、暗くなれば、当然演者は見えにくくなり、映像は見えやすくなる。つまり虚像側の存在が強まる。この後の展開を予感させる演出。

02:18 人物が左右に分かれていくと、虚像=黒の人物が映像から出てくるかのように現れる。まあ単純な仕掛けだが、映像の変化から連続する展開であり、観客のオタクたちも盛り上がっている。虚像は鏡の縛りを脱したうえに映像からも抜け出した。攻守交代。

02:30 黒が白を向こう側に引き込み、入れ替わるようにこちらに出てくる。2コーラス目は黒のターン。追いやられた白は抵抗するが、その動きがかえって黒との間の壁を示す。この壁が境界=鏡面である。ここの白は表情があって必死な感じだが、黒は振り向いて手を合わせることでそれを黙らせる。手を合わせる動きは、手を合わせているのだから両者は必ず対称関係を結んでいるわけで、この動き一発で相手を鏡像=虚像にしてしまうのである。白を鏡に閉じ込める、そのフォースを感じさせる動き。

02:43 白黒虚実の対称関係を存分に味わえる。舞台上では人物が左右に移動しているだけだが、黒と白でそれぞれ2列(合計4列)で動いていること、対称関係の1-4列目と2-3列目が逆方向に動いていること、映像がその動きをアップで捉えてテンポよくカットしていることで、妙に複雑なことが起こっているように見える。全体の動きが把握しづらいことで、保たれている対称関係がより強く感じられる。
このあたり、ただならぬ雰囲気というか、ある種の作品が帯びるオーラが確信されて、良い。

03:07 サビ。1コーラス目と同じ動きをやっているが、この2コーラス目では鏡像=白が実在しているのが面白い。鏡の動きの通りに後ろ向きに進み、壁に向かってパフォーマンスする白、白黒密集する動きの面白さ、境界線上にカメラを用意している周到さ。刺激的な展開が続いてゾクゾクくる。音がよりノイジーに、ブロークンな感じになっているのも良い。「现实虚拟 不断交错」あたりの歌詞は、わからずとも意味が伝わってくるところ。そして仕掛けが動く。

03:32 後ろのビジョンが左右に開いて本物の鏡が現れる。本物の鏡!! 鏡の出現により、虚実の境界は、黒と白の間から、その後方へと後退する。鏡に閉じ込められていた白が、鏡像であることから解放される。だから白は自律的に動きだす。しかもさっきと違って、この鏡像は映像ではなく実体である。映像では不可能だった動き=前方向への動きが現れ、白は黒に抱きつく。
ここは鏡が現れるスピードも憎い。ゆっくりと、機械的に、運命的に現れる。

03:56 あまりのことに観客のオタクたちからどよめきと拍手が起こる。ブラボーの掛け声はフライングだが、初見の高揚とオタク的な無邪気さが感じられて良い。さて境界が舞台後方に後退し、白黒両者が実像となっている以上、彼女たちは新たな関係、すなわち横方向に並び立つ関係を結ぶことができるはずである。そうできる以上そうしなければならない。次に白黒は絶対に横に動いて並ばなければならない。それがこの曲の論理である。その論理を間奏が焦らし、期待を煽る。この数秒の緊張感。動け、動け、横に動け!

04:07 舞台上で完全に正しい現象が展開する。白と黒が入れ替わるようにして、左右の向きで対称に動く。その動きが鏡に映って、前後対称の光景をつくる。さらに、各々の白/黒は、隣の黒/白とも対称関係を結んでいる。そしてそれもまた、鏡に映っている。
こういうことだ。04:10付近に映っている4人を「黒A・白A・黒B・白B」とすると、まず「黒A-白A」「黒B-白B」の組が見える。しかし白と黒が横に並んでいるので、「白A-黒B」「黒A-白B」もまた鏡面の関係になる。これらの関係は後ろの鏡に反射して、「黒A-黒A'」のみならず「黒A-白A'」または「黒A-白B'」の対称関係も発生させている。こんなことが各々の人物に対して起こっている。
この錯綜が効果を生む。張り巡らされた対称関係は飽和して消える。これまで白黒セットで一つの存在を構成しているように見えていたのが、その「セット」が無数に出現することで、かえって一人ひとりが独立した存在として浮かび上がってくるのである。手を合わせてからは、白黒は対称を破りつつ、各々一個の存在として干渉しあって動いている。ここに至って白=黒は実像=虚像である。どちらも実像であり、虚像である。鏡の前で、その両者が支え合う。双面偶像が踊る。

04:44 白と黒が激しく入れ替わる。それらは双面の片割れではなく、それぞれ双面を持つものたちとして見えている(最後の決めポーズがちゃんと「二人」に見えるところがグッとくる)。2コーラス目には無かった、鏡が割れるような音が入っているのも、良い。拍手、拍手。

白=実、黒=虚と当てておいてからその関係を逆転させ、さらに関係を錯綜させて崩すことで、一人ひとりが実像と虚像の双面を持った偶像として立ち現れてくる。舞台装置を効果的に用いて、タイトルのテーマをよく感じさせた。見事。

もう1曲。
#15 Gravity



 クライマックス15曲目。冒頭一撃である。ストリングスの音に合わせた腕の動きと、上半身だけを動かして傾くセンターの踊り。これは明らかにマリオネットを連想させるところで、ストリングスの音がやむと沈み込んでしまうのも、操り人形は操られていないと重力に逆らうことができないから。ここで歌い始めた人物たちが、人形を吊り上げるように、または無から像を生成するかのように、腕を振る。するとその動きに連動して、 沈んでいた人物たちが立ち上がってくるのである。歌詞の入りは「泥沙做的偶像……(泥で作られた偶像…… )」 。冒頭20秒、タイトルたる重力/それに逆らう力を動きによって表現し、偶像と操り人形を重ねつつ、歌詞でそれがありふれた素材から作られた存在であることを示唆している。超高密度、畳み掛けるつくりに鳥肌が立つ。

 こんな自己言及的(?)な始まりなので、彼女たちが自立して動いていること自体に、なにか特別な意味があるように感じられてきてしまう。曲自体が重厚な雰囲気なのももちろんあるが、ここは公演全体を見渡す視点を使うと面白みが増す。

 まず最初の弦楽器の演奏というアクションは、#1のリピート(#14の最後の動きからも繋がっている。芸が細かい)。#1は小道具を使うのに対して、#15では身体のみで表現する。00:50あたりの人物を持ち上げる動きは、歌詞を参照すると広州塔の表現のようだが、この広州塔は#4の03:20あたりで後ろのビジョンに映っている。#4では映像なのに対して、#15では身体による表現。このビジョンは、上述#8では大活躍していたが、#15では真っ黒のまま。背景なしのステージで人物を見せる。そのほかにも、02:40付近の上下動、02:55付近の腕を振り回す動き、03:22付近からのよろめく動き、これらはいずれも生身の人間による表現であることを意識させられる振り付け。こんな感じで、演者たちの身体が動いているという事実そのもにに、妙な感慨を覚えることができるようになっているのである。序盤からの展開という視点では、「Gravity」という曲名自体、#3「Fly」と対称的な関係を結んでいる(序盤の曲との雰囲気の違い!)。#8に「双面偶像」が置かれていることで、公演構成上でも鏡のような関係が結ばれ、クライマックスでの人物たちの小細工なしの表現に、なにか彼女たちの「もうひとつの顔」があらわれているような気がしてくる……、というわけ。

 この曲は、重力という下方向への宿命的な力に対して、アイドルたちはそれに逆らって翔ぶ、という展開になっている。ラスト04:33付近からは、演者が一人ずつ自分の名前を叫び、最後に両足でしっかりと立って終わる。煽りまくる曲調もあって非常にアツいところだが、最後に付け加えるなら、この名乗りのシーンでは観衆のオタクたちがとても良い仕事をしている。聞き取りにくいが、彼らはおそらく「Team G!」と叫んでいる。その声が気づかせる。そういえば、これは「Team G」という集団の公演なのであった。Gとはすなわち重力である。
・中国語はポップスでも漢詩のように押韻する(脚韻)。さらに、(漢文で習ったように)日本語の音読みでもそれが概ね理解できる。この事実だけでも面白い。(例えば上記の「Gravity」では、像・上・場・揚、装・向・上・攘、……と続いていく。英語の部分も合わせることがある。)
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読書感想文「ごんぎつね」

新美南吉 ごん狐 - 青空文庫

 まず最初が良い。一段落めで、語り手が伝聞であることを明かす。二段落めは、背景説明。三段落めになると、「私」が消え「ごん」が現れる。四段落めで、物語が始まる。五段落め、「ごんは、ほっとして穴からはい出ました」。語りがごんに寄り添う。ズームインしてピントを合わせる、流れるようなカメラワーク。

 それに対して終わりの引きは急だ。最後の場面、ここまでごんに寄り添っていた語りが急に転回し、「兵十は、ふと顔をあげました」。ここから兵十の決断は早い。狐を認めると、「ようし。」の一言ですぐに発砲する。最初のなめらかさと、最後の唐突さ。いきなり撃たれたという印象がごんへの同情を誘う。かわいそうなごん! 償いに来たことが伝えられさえすれば! 兵十さん厳しすぎ!

 しかし兵十が撃ったのは充分に合理的な行動だった。それはもちろんごんが撃たれて当然のことをしたからではない(そういう感想は作品に書かれていることを読んでいない。ごんは撃たれて当然といえるようなことは何もしていない)。兵十の母が死に際にウナギを求めたのかどうかは定かではない。それはごんの想像である。ウナギリリースと兵十母の死は関係があるとはいえず、ごんが感じる罪の意識は狐の勝手な妄想である。ごんは加害妄想傾向の強い狐なのだ。

 ごんがウナギをリリースしたのは事実だが、これも撃たれて当然の罪などではまったくない。この世界における魚泥棒への報復基準はイワシの場面で既に明らかにされている。兵十自身が体験したように、それはほっぺたに「かすり傷」がつく程度ですむ話なのである。兵十がごんを撃ったのは、母の仇だからではなく、窃盗犯だからでもない。たんにごんがキツネだったからだ(家にキツネが入ったら、特に恨みなどなくとも撃つ可能性はある。「こないだうなぎをぬすみやがった」という記憶は後押しにすぎない)。ごんが撃たれたのはひとえにキツネだったからで、その存在自体が原因であって行為のせいではない。だからこそ兵十の発砲はいたましく、そして正当である。彼は悪行に報いたのではない、有害鳥獣を駆除したのだ。

 いや、ごんは本当にキツネなのか?

 第一場面にはこうある。「その中山から、少しはなれた山の中に、『ごん狐』という狐がいました」。「ごん狐」という「狐」がいたとある。確かにそう書かれている。ところが、「狐」という日本語は、動物の「キツネ」を指すとは限らないのである。辞書!

きつね【狐】
1 イヌ科の哺乳類。体長45~90センチ、尾長30~55センチ。……
2 人をだます、ずるがしこい
(『デジタル大辞泉』)

 このことを念頭に置くとこの小説はたいへん面白く読める。先の続き。「ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました」。村八分にされ、見捨てられた孤児が、森の中で生きていた。「そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました」。食べるために村に出てきて畑を荒らす。「小狐」という言い方がやや苦しいが、やっていることは「人」であっても無理はないし、その行いから「狐」と呼んでも差し支えあるまい。放火とはいかにも人間的なふるまいではないか。

 ここではごんが人であったと主張したいのではない。ごんが人であったかもしれない、と考えられるところが、この作品を面白く読むことにつながったところだと言いたいのである。ごんが獣とも人ともいえる=どちらともつかない存在であるという傍証はある。この作品には短い中に魚に関する場面が二つ出てくる。例のウナギリリースの場面と、イワシスチールの場面である。この二つを比べる。まずウナギリリース。「ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました」。ここまでは人でもありうる。次からが面白い。

一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。……ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。

 ウナギを咥えてその頭を噛み砕く! これは人の所業ではない。明らかに獣である。この「うなぎの頭をかみくだき、」という描写は作中随一の生々しさで印象に残り、だから次のイワシスチールとの差を際立たせる。

ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向むかってかけもどりました。

 籠の中からイワシを掴み出して走っていき、家の中に投げ込む。繰り返すが、手にイワシを持って走っている。これはどう考えても直立二足歩行であり、人の仕業だ。〈ウナギ〉と〈イワシ〉の二つの魚場面で、ごんの行為が〈獣〉の所業から〈人〉の仕業に変わっている。この二つの場面の間には、兵十母の葬式がある。ごんは兵十母の葬列を墓地の地蔵の影に隠れて待った。地蔵とはもちろん人型の像である。その人型の影に入ることで(この後ごんは兵十の「影法師」にも入る)、そして「ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった」といかにも「人間的」な反省をすることで、両義的な狐は〈人〉度を上げている。

 最後の場面で、兵十はごんを撃った。先に見たように、それは相手がキツネだったからだ。そうでなければあの決断の速さはありえない。しかし兵十にとってはキツネであった彼は、読者にとっては〈獣〉と〈人〉が重なった両義的な狐である。しかもこの狐には、作中を通して〈人〉度を上げる操作がなされている。そういう存在を兵十は殺していいものと判断し、撃った。こういうふうに考えてみると、この場面は、「殺していいと思って撃った相手が、よく考えてみると自身と同じ人間だったかもしれない」という悔悟を伴う気づきを、テキストの鑑賞を通して体験しうる場面だと解釈できるのである。兵十とは人類の罪を背負って十字に架かるツワモノなのだ。

 ここに至って私は深く感動した。


文章中の引用は以下から。引用中の強調は筆者による。
新美南吉 ごん狐 - 青空文庫

(暫定)「ラブライブ!」2期記事のまとめ

第二アイドル速度「ラブライブ!」2期第9話

 この回が特別であることは冒頭でわかる。妹は2階にいる姉に声をかけた:「いよいよ今日だね、最終予選!」。これまで各話の作中時間は2~3日、比較的端正な時間配分でお話を進めてきた。だが今回は最初からライブ当日だ。天候は「Snow halation」らしく雪。2年組はこの雪のせいでライブ会場に行けなくなりかける。このピンチは一般生徒の雪かき支援によって乗り越えられる。生徒の言葉が象徴的だ:さあ、走って。音ノ木坂のみんなで作った道を!。ファンが道を作り、アイドルがその道を走る……。……こんなそれっぽい出来事を描いているのに、映像の印象は何かヘンだ。いきなり吹雪、大げさな音楽、メンバーたちは思いを叫んで大号泣。これは寒い、雪だけに。この、いわゆる「感情移入」を拒むかのような映像は、いったいどうしたことか?

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この映像を見て主人公と一体化して泣くのは難しい。「感情移入」云々は作品のおもしろさとは全く関係ないが、それを拒むような映像であったことは覚えておく。/絵里に抱きついて感動的なことを言った後に鼻水を出して茶化す。この鼻水はあってよかった。なかったらもっとキツかった。

 2期9話の雪は、「ファンが道を作り、アイドルがその道を走る」ことの材料になっていたが、ではなぜ走ったのは2年組だけだったのか? お話としては、もちろん生徒会の仕事=学校説明会の挨拶で、2年組が学校に行っていたからだ(OP後の最初のシーンで絵里が妙に丁寧に説明してくれる)が、これでどんな効果が出たか。説明会の挨拶は、相当に強いオーダーのようで、穂乃果は電話で「理事長は説明会を欠席してもいいって言ってくれてるんだけど、そういうわけにもいかないし……と言っていた。困り顔で「そういうわけにもいかないし」と言うところからは、愛校心や責任感よりも、やむを得ない事情にあたってしまった苛立ちを感じる(だから直後の電話は怒り気味に取る。絵里が意味のない電話を掛けたから穂乃果の苛立ちが見える)。ライブに遅れるのも学校のためならば仕方がない。穂乃果たちは理事長よりも強い力=学校によって引き止められている。

 当たり前のことのようだがこの事実は重い。1・3年組を先行させ、2年組を「生徒会の仕事」で別行動にしたことで、学校がμ'sにとっての障害であるかのように見えてくるからだ。この見立ては校舎前の一般生徒とのやり取りでさらに固まる。生徒の雪かきを手伝おうとした穂乃果はこう言われる:「穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ。この作品をちゃんと見ているのなら決して聞き流すわけにはいかない言葉。端的に言ってこの認識は間違っている。穂乃果たちは学校のためにラブライブに出ているわけではない。特に2期は確実にそうではない。2期1話でラブライブに再エントリーすることを決めたとき、「学校のため」という理由はまったく語られなかったし、今回海未やことりや穂乃果がそれぞれの思いを叫ぶ段でもそのような言葉はない。生徒は「ラブライブ」と「生徒会」を「学校のため」という目的において並列に語ることで、「生徒会」より「ラブライブ」を優先する選択肢を封じている。「学校のため」という殺し文句で、2年組を拘束している。穂乃果たちは学校のせいでライブに行けないのだ。

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学校とライブは背反的な関係にある。穂乃果たちは雪かきを手伝おうとして、ライブ当日だからという理由で拒否されている。今度は逆に、ラブライブのせいで学校の仕事ができない。/例の雪のシーン、2年組は大変な苦労をしていたが、雪に足止めされていたのは学校の敷地内に限られる。学校の境界線を超えると、雪は弱まった。会場に行くのが大変だったというよりは、学校から出るのが大変だったと見える。今回の学校はジャマ者だ。

 さて先述の生徒たちは続けてこう言っていたのだった:「穂乃果たちは、学校のためにラブライブに出て、生徒会もやって、音ノ木坂のために働いてきたんでしょ。だから、今日は私たち助ける番。私たちも協力したいから。私たちだけじゃない、みんなもだよ」。作品全体でも最大級の引っかかりを残す特別なセリフだ。これを展開する。生徒は穂乃果たちの音ノ木坂への働きを認め、だから私たちは協力する、と言っている。「私たち」の雪かきは、穂乃果たちの「音ノ木坂」への貢献に対する見返りなのだ。ここで生徒は「音ノ木坂」と「私たち」を同一視している。「私たち」とは雪かきに参加している「みんな」のことであり、要するにμ'sの支援者=ファンのこと。そう考えると、この生徒の発言は、アイドルとファンの関係についての認識を語ったきわどい言葉にも聞こえてくる。強引に翻訳すれば……穂乃果たち=μ's=アイドルは、音ノ木坂=私たち=ファンのために活動してきてくれたでしょ。だから、今日はファンが助ける番」。ここに見えるのは、(1)アイドルはファンのために活動している、(2)ファンのための活動とファンの支援は交換される、という認識。これが私たち=音ノ木坂のアイドル論だ。なんと現実的!

 この後、穂乃果たちは閉じこめられていた学校から脱出し、会場まで走る。生徒たちの協力のおかげでライブには間に合った。お話的にはまったく喜ばしいことだが、これまで書いてきたような視点に立てば、ここでは2期全体にかかわる決定的なことが起こっているように見える。2期9話において、学校は穂乃果たちを拘束する障害であった。このことを意識すると、「穂乃果たちが学校から出て行った」という事実が、彼女たちが「学校」という存在あるいは「学校のために」というマジックワードの拘束から抜け出した、と読み換えられるからである。のみならず、彼女たちのダッシュは、アイドルとファンの関係についての「音ノ木坂」的認識、すなわち「ファンあってこそのアイドル」という認識からも逃れ出る象徴的な走りとも見えてくる。これは革命的な事態である。2期9話の「音ノ木坂からの脱出」は、μ'sから、「ファン」という、アイドルに宿命的に課せられた拘束をも解除するものだったのである。その「走り」を、2期9話は露悪的に大げさな映像で写し取った。視聴者の「感情移入」を拒む映像は、彼女たちが「ファン」という拘束から解き放たれた証なのだ。

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吹雪がやみ、学校と公道の境界上から、穂乃果は生徒たちを見る。雪は道を遮ると同時に、視界を遮るものでもあった。雪が弱まり、視界が晴れたから、生徒たちの姿が見える。同様に、生徒たちは走る彼女たちを見ることができようになる。こうして「『ファンが作った道をアイドルが走っているところ』をファンが見る」構図が成立する。/生徒は学校を背負って立つ。何ともおそろしい。

 そして、さらに驚くべきことに、2期9話では、穂乃果たちの学校からの脱出において決定的な力となったのが、他ならぬ一般生徒だったことが描かれているのである。ここでファンのための活動とファンの支援を交換する現実的な期待は決定的に崩れ去る。μ'sに対する支援は、彼女たちが学校から脱出するための加速に、ファンから離れていくための推進力に使われている。ライブ直前の場面でも、穂乃果は「学校のために歌う」とは一言も言わない(「学校が好き」とは言うが、好きなだけである)。もちろん、「みんなのために歌う」とも、「ファンのために歌う」とも言わない。彼女たちは好きなものを(心中で(!))列挙してから歌う。その言葉は観客の耳には届かない。観客たちはパフォーマンスから「ありのままの気持ち」を推察するしかない。ファンは何ら特権的な見返りを得ていない。ただパフォーマンスを見ることができるだけである。そこにはまっとうな壁がある。

 今回、音ノ木坂の生徒は「ファンが作った道をアイドルが走る」場面を目撃している。この作品はファンとアイドルの関係を慎重に(あまり関係ないものとして)扱ってきたように見えていたから、はっきり言って出しゃばり過ぎに感じたし、違和感の残るところだったが、2期9話で生徒たちがやっていたことは、単なる「支援」ではなかったのである。雪かきの生徒は言った、「来たよ、全校生徒が」。しかし雪かきに参加しなかった音ノ木坂の生徒は少なくとも9人いる。「音ノ木坂」や「全校生徒」といった不用意な一人称は、9人のアイドルを他者として学校から排除する。「全校生徒がμ'sを支援する」という形をとった時点で、μ'sは音ノ木坂の生徒ではない。困難を乗り越えて「Snow halation」を歌ったことで、彼女たちはファンとは「違う世界の人」になってしまったのである。そのとき、彼女たちは「感情移入」の外に行く。私たちは彼女たちの涙を共有することができない。彼女たちは学校から出て、私たちが理解できる範囲の外に行ってしまったからだ。そして、このことは、他ならぬファンの力で成し遂げられた。アイドルとファンが最接近したとき、両者は決定的に別れたのだ。

 学校という要素を意識すると、彼女たちの存在にかかわる本質的なことが語られているような気がしてくる、というのがこの作品の仕掛け(というほどのものでもないが)。先を見通せば、スクールアイドルという設定と学校という時間空間的拘束の緊張のようなものは、この先で問題になっていることではある。作中、穂乃果がライブ会場にまだ来ていないと言われたツバサは、「今日のライブで、この先の運命は決まる」と言っていた。2期9話のライブが転換点だとすれば、それは物語展開だけの問題ではないと見える。

穂乃果たちが走り出す瞬間、下り階段で加速する動きは、映像では捉えられていない。欲しいところだった。

ホワイトカラーダイエット「ラブライブ!」2期第7話

 7話には大きく分けて二つのお話がある。主に前半、穂乃果の体重の話と、主に後半、生徒会の予算の話。穂乃果のダイエットはなかなかうまくいかないが、もう一つのお話=生徒会の問題が最後に一件落着すると、体重の問題も同時に解決される。問題は、一見この二つのお話がうまく繋がっていない、というか、ほとんど結びついていないように見えることだ。中盤のランニングシーンは動きがあって印象的だが、生徒会のお話が進むと画面は動きを失っていき、最後は居残りの書類整理で全てが解決されてしまうのである。残業デスクワーク! ホワイトカラー的非活動が画面からおもしろみを奪う。こんな流れで「成長できてるんだと思う」(ことり)といい感じにまとめられても、それは思うことがない。

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冒頭の紙はペラ一枚だが、次の生徒会室では書類が積み上がっている。重さの可視化。/中盤では穂乃果に直に書類の束を持たせる。当然、穂乃果の重さは増える。体重と生徒会問題の接続。

 では7話はなぜこんな構成になっているのか? ここで印象的だった例のランニングシーンを入口にしてみよう。穂乃果がダイエットすることになったあと、部室では花陽がわざとらしくオニギリを食べていた。ここから7話は、花陽も体重が増えていたということで、二人が組になってダイエットへ、と展開していく。例のシーンは、穂乃果と花陽が「ご飯屋」に入るかどうか、ランニングしながら吐息とジェスチャーで会話しているのがギャグ的でおもしろみがあったわけだが、しかし花陽は次のシーンで「元の体重まで戻りました」と言われて、あっさりダイエットから離脱してしまう。その後の展開にも特に絡むことがない(このことも7話の印象を散漫にしている)。では花陽はなぜ出てきたのか?

 花陽が出てきたことでどんな効果があったのか? 例のランニングで、二人は吐息で会話をしながらも頑なに足を止めない。二人の動きはほとんど同じであり、ほぼ同一の運動をしている。となれば、逆に二人の違いに注意が向く。二人の違いは、まさに花陽がダイエットから離脱してしまったこと、つまり運動の結果として明確に表れている。Bパート最初の結果発表で、海未は次のように宣告する。「まずは花陽、運動の成果もあって、なんとか元の体重まで戻りました。しかし穂乃果、あなたは変化なしです」。運動の結果、花陽は元に戻り、穂乃果に変化はなかった。この差は何か? 

 海未と穂乃果の会話では、穂乃果が隠れて間食していたことが追及されるが、画面上にその間食は現れていなかった。というか、7話では、穂乃果は散々食事のことを言われながらも、最後にパンを食べ(ようとす)るまで、モノを食べる描写が全くない。7話で食べる描写といえばむしろ花陽のほうで、オニギリを食べるところは繰り返しの動きもあって妙に印象が強かった。この食べる描写の有無、つまり体重が増えた原因が明確に描かれているか否か。これが二人の違いと見える。花陽はあのデカいオニギリを食ったから太った。これはカロリーの問題である。よって運動して燃やせば元に戻る。それに対して穂乃果はモノを食べていない。だから運動しても元に戻らない。そういえば穂乃果本人も「毎日あんなに体動かして、汗もかいてるでしょ? まさかあそこまで体重が増えているとは……」と不思議がっていた。さらに、穂乃果は身長が変わっていないという事実がある(穂乃果の身長はなぜか二回も言及があって、変化がないことが強調されている)。ということは、穂乃果の体重増加は、肉体の変化によるものではない

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花陽は穂乃果に「仲間」と言われて目を逸らす。二人は同じ「ダイエット組」に見えるが、実はそうではない、ということ。彼女は決して米好き設定で引っ張られてきただけではない。/二人は同じ動きをする。同じ運動量だが、結果は違った。/最後のシーンも食べずに終わる。食べたのか曖昧なままカットするのもそれらしい。

 では穂乃果の重さは何なのか。今回、穂乃果の重さはどのように表されていたか? 序盤の生徒会室のシーンで、穂乃果はファーストライブの衣装を着せられることで「現実」を知る。衣装が入らなかったという想像を誘われるが、ここで「穂乃果の身に何が起こったのか」(海未)は、本当のところは見えないからわからない。直後、ことりが「体重は増えたかもしれないけど、見た目はそんなに変わってない」と言いかける。これは全くその通りで、穂乃果の見た目は変わっていないように見えている。衣装は入らなかった(らしい)が、見た目はそんなに変わっていないという、微妙な体型の差に穂乃果の重さがある。重さと見た目(肉体)の関係が危うくなる。

 次の操作は屋上のシーン。練習中、生徒が唐突にサインを求めてくる。ここのやり取りは、生徒「実は私、園田先輩みたいなスタイルに憧れてたんです」、海未「そんな、スタイルだなんて……」。体型のことを「スタイル」と言い換えて二度言わせる。ここで「スタイル」という言葉を置いているから、少し先の神社のシーンでまたこの言葉が出てきたときに引っかかる。神社に集まったメンバーが、ネット上で自分たちのことが褒められているのを見る、という流れで、希が「どうやら今までどおりの自分たちのスタイルでいって、正解やったみたいやね」と突っ込んでくる。この「スタイル」は当然「型」とか、もっと言えば「在り方」とかいう意味で使われている。「スタイル」の意味が「体型」からずらされる。そのことに意識がいったところで、すかさず凛が「最終予選も突破してやるにゃー」と言ってくる。そしてトドメは絵里「それまでに、二人にはしっかりしてもらわないとね

 以下展開。希のスタイル発言は、当然、前回6話の内容を汲んだもの。ありのままの自分たちで闘う決意をした、というのは問題ない。では直後の「最終予選も突破してやるにゃー」という凛の発言はどうか。振り返れば、2期は1話のラストで「優勝を目指そう!」と穂乃果が宣言したことから始まった。だから凛の言葉は2期のμ'sの一貫したスタイル=在り方を示す直接的なセリフと取れる。この凛は2期μ'sのスタイルに準拠している。さて今回、穂乃果はファーストライブの衣装から自身の「現実」を知ったのだった。このファーストライブをやったのは1期3話(半年くらい前)である。つまり穂乃果は2期7話の自分を1期3話の自分と比較して認識する経験をしたことになる。ということは、この経験をもって、穂乃果は自分の「スタイル」を1期の頃と比較して見る視点を得ていると見える。そしてこの時点で1期まで遡って自身の在り方を認識する視点を持っているのは、おそらく穂乃果だけなのである(だから「最終予選も突破してやる」と言っている2期μ'sの人たちに、「しっかりしてもらわないと」と言われてしまう)。2期1話に準拠したμ'sに対して、穂乃果にとっての戻るべきスタイルは1期3話の在り方であり、有り体に言えば初心のこと。そこからのズレが、スタイル=体型=重さの差になって表れた。7話の穂乃果の重さとは、2期1話の自分が規定してしまった、2期μ'sの在り方の重さなのである。

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衣装のシーン、穂乃果はよほどショックだったのか、涙を浮かべて「ごめんみんな、今日は一人にさせて……」と漏らす。これを言ったとき、穂乃果の周りには海未とことりの二人しかいなかった。そういう状況で「みんな」という言葉を選択している。自分以外の8人に向けた言葉。/結果発表のシーンで、海未は「本当にラブライブに出たいと思ってるのですか!?」と凄み、穂乃果は「当たり前だよー!」と返す。穂乃果と2期μ'sの微妙な距離感。これを見た凛は「穂乃果ちゃんのこと、嫌いなのかな……」とかなり頭の悪そうなことを言っているが、何か違和感を受けていたのだとすれば鋭い。/予算会議で、にこが「生徒会以外」の一人として描かれるいいカット(後述)。「無い袖は振れません!」が意味するところは言わずもがな。

 ここまで来れば7話終盤の動きのなさも妙に説得的に見えてくる。最後のところ、穂乃果の体重はどうして元に戻ったのか。本人は「3人で一生懸命がんばってたら、食べるの忘れちゃって」と説明していたが、もちろんここで重要なのは、食べるのを忘れたことではなく、「3人で一生懸命がんばってた」のほう。Bパートは、最初の結果発表のシーンの後は、2年組の生徒会の仕事を追う。だから画面は動きを失い、前半と繋がりを欠いているように見えた。しかしこのこと自体、すなわち生徒会の仕事をやっていたこと=μ'sの活動をしなかったこと、海未とことりと3人で何かを一生懸命やっていたことが、そのまま「戻ってた」ということになるのである。μ'sの9人の枠組みからの離脱の意志はなかなか徹底していて、3年生ふたりの支援を断るのはもちろんこの流れの中にあり、ダメ押しで矢澤にこが「アイドル研究部部長」として生徒会=3人と相対する場面がある。「私たち」という言葉の使い方にも変化がある。こんな感じで7話を見返せば、穂乃果の初心から微妙に離れてきてしまった2期μ'sの「現実」を体重問題に乗せて語る、緊張漂うテクニカルな回として見直すこともできる。

補 9人組からの離脱と「私たち」
・生徒会室で3年組の協力を断るシーンは、μ'sの9人の枠からの離脱の意志がよく見えた。穂乃果は絵里と希に協力を提案されながらも私たちで何とかしなきゃ、ダメなんじゃないかな」と断る。ここで「私たち」は2年組の3人に限定されていて、その場にいる絵里と希は入っていない。希が「自分たちのスタイル」と言っていたように、μ'sとして語るときには当然9人を指すが、ここでは違った。
・予算会議でのにこの登場もポイント。「アイドル研究部の部長」として生徒会の3人の前に出てくることで、3人を完全にその枠外に出す。「どうしてここに?」「当たり前でしょ? アイドル研究部の部長よ、私は」というやり取りがいい。このとき穂乃果はアイドル研究部員としての自分を持っていない。だが、にこが議事進行に協力的だったのは、やや甘い。
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