『双面偶像』

 中国アイドルGNZ48の劇場公演。公演タイトル『双面偶像』は、字の通り「二つの顔をもつアイドル」といったところか。全16曲構成、最後の1曲はエンディング的な曲で、それを除いた15曲の真ん中(8曲目)に、タイトル曲が来る。これがたいへん構成的で、分解欲をそそられた。
#8 双面偶像



00:00 前奏。音も動きも深刻な雰囲気。音に合わせてカメラが切り替わり、登場人物を8人映す。狭い画角とスポット照明で、人物が左右交互にフェードアウトしていくように見える。全員が出たところでカメラが引き、舞台中央でフォーメーションを組んでいたことがわかる。Aメロが始まる。

00:35 1コーラス目。顔を隠したり、背中合わせで並んだりする動きと、それをトレースする後ろのビジョンの映像が、タイトル「双面」 とのテーマ的な関連を匂わせる。01:00の斜めアングルがわかりやすいが、後ろのビジョンには、舞台上の人物が鏡に映っているテイの映像、つまり「鏡像」が映っている。

01:17 サビに入るとカメラは全体を捉える。全員が並んでこちらに進んでくることで、こちらとあちらの前後の対称がより意識されてくる。01:28付近、立体的なフォーメーションの演者と、平面の鏡像との対照を見せてくれるのが良い。テーマに引きつけてみれば、両者は「実体/鏡像」という物理的な対称にとどまらず、「実像/虚像」という、偶像の双面として現れているように見えてくる。
密集するところを寄りで捉えるのも的確。01:47あたりで、ビジョンの映像が、振り返るタイミングや向きまで忠実にトレースするいやに凝った映像であることに気づかされるが、ここまでしつこく鏡像の関係を結んだからこそ、その対称が破れることが意味を持つ。

02:01 1コーラス目の終わりで事態が展開する。少し見えにくいが、「多少人躲在镜子背后(鏡に何人隠れているの)」の歌詞のところで、後ろの鏡像が振り返り、こちらに向き直っている。実体=実像に従属していたはずの鏡像=虚像が勝手に動いている! 実体のほうはその後に振り返って向き合うが、この動きによって実体と鏡像の関係は反転してしまう。実体のほうが鏡像の動きをトレースしたことになるからである。両者が手を合わせるところで、ビジョンの表面が割れて、鏡像が黒の人物に変わる。虚像はこちらの鏡像であることをやめる。
手を合わせる動きは、この後も展開の鍵として用いられる。照明が暗くなるのも効果的で、暗くなれば、当然演者は見えにくくなり、映像は見えやすくなる。つまり虚像側の存在が強まる。この後の展開を予感させる演出。

02:18 人物が左右に分かれていくと、虚像=黒の人物が映像から出てくるかのように現れる。まあ単純な仕掛けだが、映像の変化から連続する展開であり、観客のオタクたちも盛り上がっている。虚像は鏡の縛りを脱したうえに映像からも抜け出した。攻守交代。

02:30 黒が白を向こう側に引き込み、入れ替わるようにこちらに出てくる。2コーラス目は黒のターン。追いやられた白は抵抗するが、その動きがかえって黒との間の壁を示す。この壁が境界=鏡面である。ここの白は表情があって必死な感じだが、黒は振り向いて手を合わせることでそれを黙らせる。手を合わせる動きは、手を合わせているのだから両者は必ず対称関係を結んでいるわけで、この動き一発で相手を鏡像=虚像にしてしまうのである。白を鏡に閉じ込める、そのフォースを感じさせる動き。

02:43 白黒虚実の対称関係を存分に味わえる。舞台上では人物が左右に移動しているだけだが、黒と白でそれぞれ2列(合計4列)で動いていること、対称関係の1-4列目と2-3列目が逆方向に動いていること、映像がその動きをアップで捉えてテンポよくカットしていることで、妙に複雑なことが起こっているように見える。全体の動きが把握しづらいことで、保たれている対称関係がより強く感じられる。
このあたり、ただならぬ雰囲気というか、ある種の作品が帯びるオーラが確信されて、良い。

03:07 サビ。1コーラス目と同じ動きをやっているが、この2コーラス目では鏡像=白が実在しているのが面白い。鏡の動きの通りに後ろ向きに進み、壁に向かってパフォーマンスする白、白黒密集する動きの面白さ、境界線上にカメラを用意している周到さ。刺激的な展開が続いてゾクゾクくる。音がよりノイジーに、ブロークンな感じになっているのも良い。「现实虚拟 不断交错」あたりの歌詞は、わからずとも意味が伝わってくるところ。そして仕掛けが動く。

03:32 後ろのビジョンが左右に開いて本物の鏡が現れる。本物の鏡!! 鏡の出現により、虚実の境界は、黒と白の間から、その後方へと後退する。鏡に閉じ込められていた白が、鏡像であることから解放される。だから白は自律的に動きだす。しかもさっきと違って、この鏡像は映像ではなく実体である。映像では不可能だった動き=前方向への動きが現れ、白は黒に抱きつく。
ここは鏡が現れるスピードも憎い。ゆっくりと、機械的に、運命的に現れる。

03:56 あまりのことに観客のオタクたちからどよめきと拍手が起こる。ブラボーの掛け声はフライングだが、初見の高揚とオタク的な無邪気さが感じられて良い。さて境界が舞台後方に後退し、白黒両者が実像となっている以上、彼女たちは新たな関係、すなわち横方向に並び立つ関係を結ぶことができるはずである。そうできる以上そうしなければならない。次に白黒は絶対に横に動いて並ばなければならない。それがこの曲の論理である。その論理を間奏が焦らし、期待を煽る。この数秒の緊張感。動け、動け、横に動け!

04:07 舞台上で完全に正しい現象が展開する。白と黒が入れ替わるようにして、左右の向きで対称に動く。その動きが鏡に映って、前後対称の光景をつくる。さらに、各々の白/黒は、隣の黒/白とも対称関係を結んでいる。そしてそれもまた、鏡に映っている。
こういうことだ。04:10付近に映っている4人を「黒A・白A・黒B・白B」とすると、まず「黒A-白A」「黒B-白B」の組が見える。しかし白と黒が横に並んでいるので、「白A-黒B」「黒A-白B」もまた鏡面の関係になる。これらの関係は後ろの鏡に反射して、「黒A-黒A'」のみならず「黒A-白A'」または「黒A-白B'」の対称関係も発生させている。こんなことが各々の人物に対して起こっている。
この錯綜が効果を生む。張り巡らされた対称関係は飽和して消える。これまで白黒セットで一つの存在を構成しているように見えていたのが、その「セット」が無数に出現することで、かえって一人ひとりが独立した存在として浮かび上がってくるのである。手を合わせてからは、白黒は対称を破りつつ、各々一個の存在として干渉しあって動いている。ここに至って白=黒は実像=虚像である。どちらも実像であり、虚像である。鏡の前で、その両者が支え合う。双面偶像が踊る。

04:44 白と黒が激しく入れ替わる。それらは双面の片割れではなく、それぞれ双面を持つものたちとして見えている(最後の決めポーズがちゃんと「二人」に見えるところがグッとくる)。2コーラス目には無かった、鏡が割れるような音が入っているのも、良い。拍手、拍手。

白=実、黒=虚と当てておいてからその関係を逆転させ、さらに関係を錯綜させて崩すことで、一人ひとりが実像と虚像の双面を持った偶像として立ち現れてくる。舞台装置を効果的に用いて、タイトルのテーマをよく感じさせた。見事。

もう1曲。
#15 Gravity



 クライマックス15曲目。冒頭一撃である。ストリングスの音に合わせた腕の動きと、上半身だけを動かして傾くセンターの踊り。これは明らかにマリオネットを連想させるところで、ストリングスの音がやむと沈み込んでしまうのも、操り人形は操られていないと重力に逆らうことができないから。ここで歌い始めた人物たちが、人形を吊り上げるように、または無から像を生成するかのように、腕を振る。するとその動きに連動して、 沈んでいた人物たちが立ち上がってくるのである。歌詞の入りは「泥沙做的偶像……(泥で作られた偶像…… )」 。冒頭20秒、タイトルたる重力/それに逆らう力を動きによって表現し、偶像と操り人形を重ねつつ、歌詞でそれがありふれた素材から作られた存在であることを示唆している。超高密度、畳み掛けるつくりに鳥肌が立つ。

 こんな自己言及的(?)な始まりなので、彼女たちが自立して動いていること自体に、なにか特別な意味があるように感じられてきてしまう。曲自体が重厚な雰囲気なのももちろんあるが、ここは公演全体を見渡す視点を使うと面白みが増す。

 まず最初の弦楽器の演奏というアクションは、#1のリピート(#14の最後の動きからも繋がっている。芸が細かい)。#1は小道具を使うのに対して、#15では身体のみで表現する。00:50あたりの人物を持ち上げる動きは、歌詞を参照すると広州塔の表現のようだが、この広州塔は#4の03:20あたりで後ろのビジョンに映っている。#4では映像なのに対して、#15では身体による表現。このビジョンは、上述#8では大活躍していたが、#15では真っ黒のまま。背景なしのステージで人物を見せる。そのほかにも、02:40付近の上下動、02:55付近の腕を振り回す動き、03:22付近からのよろめく動き、これらはいずれも生身の人間による表現であることを意識させられる振り付け。こんな感じで、演者たちの身体が動いているという事実そのもにに、妙な感慨を覚えることができるようになっているのである。序盤からの展開という視点では、「Gravity」という曲名自体、#3「Fly」と対称的な関係を結んでいる(序盤の曲との雰囲気の違い!)。#8に「双面偶像」が置かれていることで、公演構成上でも鏡のような関係が結ばれ、クライマックスでの人物たちの小細工なしの表現に、なにか彼女たちの「もうひとつの顔」があらわれているような気がしてくる……、というわけ。

 この曲は、重力という下方向への宿命的な力に対して、アイドルたちはそれに逆らって翔ぶ、という展開になっている。ラスト04:33付近からは、演者が一人ずつ自分の名前を叫び、最後に両足でしっかりと立って終わる。煽りまくる曲調もあって非常にアツいところだが、最後に付け加えるなら、この名乗りのシーンでは観衆のオタクたちがとても良い仕事をしている。聞き取りにくいが、彼らはおそらく「Team G!」と叫んでいる。その声が気づかせる。そういえば、これは「Team G」という集団の公演なのであった。Gとはすなわち重力である。
・中国語はポップスでも漢詩のように押韻する(脚韻)。さらに、(漢文で習ったように)日本語の音読みでもそれが概ね理解できる。この事実だけでも面白い。(例えば上記の「Gravity」では、像・上・場・揚、装・向・上・攘、……と続いていく。英語の部分も合わせることがある。)
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I've『THE TIME ~12 Colors~』



 新旧ボーカル大集合がコンセプトということで、収録12曲は、ボーカル12人が1曲ずつ、コンポーザー6人が2曲ずつという構成。バラけていて良い。全曲オリジナルなのも良い。特に、3、7、10、12が良い。

 その中でも7→8の流れが面白い。7の「Stardust Train」は高瀬一矢とKOTOKO。真打ち感がある。で、8の「Hydrangea」がNAMIとLarval Stage Planning。新しい感じがする。時の流れを感じる。長い前奏と間奏+Cメロが印象的な7に対して、ほとんど隙間なくボーカルが入る8。人間が歌ってる気がしない(匠の技!)7に対して、歌詞の言葉がよく聞こえる8。違いがわかる。でも、確かに、なんだか両方I'veっぽい。そういう感じがするから、I'veっぽいって具体的にはどういうことなんか、とか、どういうところに惹かれてるのか、とか、そんなことを思わせる。

 受ける印象。音が多い。重ねまくる。なんか複雑。サイケな打ち込み。デジタルな繰り返し。背後に人間がいない感じ。でも、曲を聞き終わると、そういう要素への印象はあまりなくなる。パーツひとつひとつの存在感は消える。埋もれる。パーツ自体は印象を持たない。切った音があからさまに組み上がっている、構成されているのがわかるのにバラせない、でも打ち込みだから人間が音を出し合って構成しているわけではない……。この感じ。こういう感じが好きだ。この点、Stardust Trainは、凄く複雑という印象はなくて、むしろパーツが比較的聞こえやすい気がしながら、しかしバラせない、曖昧な全体に際どくとどまっている感じがした。だから、良いと思った。

 逆に、Hydrangeaは、パーツの音が聞こえてくる。これが質の善し悪しなのかどうかわからないが、要素に還しやすいというか、あ、いま音鳴らしたな、という感じがしてくる。部分が全体からハミ出ている感じがするところがある。ボーカルも、少なくとも前の曲よりは歌詞がよく聞こえる。人間が言葉を喋っている気がする。(Youtubeに上がっているラジオで、作編曲のNAMIが「ボーカルは素晴らしい楽器だと思った」みたいなことを言っている。簡単にボーカルを楽器扱いするところがクールで面白い。ボーカルは人間であって楽器ではない)。でも音が重なる感じはI'veっぽい。……2曲が並んでいるからこんな感想が出てきた。

 全曲オリジナルなのも良い。I'veの曲は編曲が一番聞きたいところだと思っている。編曲は作詞作曲には先立たないはず。曲が無いとできないんだから二次的なことだが、しかしそれが一番の勘所。エロゲー曲から始まったというのがまたそれらしい。言いたいこととか歌詞の根拠とかは外から持ってきて作っている。でも作品に紐付いた曲は(特に歌詞の内容が)作品を指向しているわけだから、それ自体に意味がなくても何かを指す機能がどうしても強く残る。思い切ってわかりやすく言えば、メッセージ性が強すぎる。でもボーカルを楽器扱いして編曲で聞かせる曲には、先立つものは無くていい。一周回って、オリジナルのほうが味が出る。そういう意味では、ガールズコンピレーションのコンセプトも良い。誰々のアルバムでは無い。出自不明の曖昧な曲が並ぶのがいい。

 ……とにかく、Stardust Trainが妙に気に入った。これまでのI've曲の中でもベスト付近。

映画二題

 映画上映イベントをふたつ見た。一つは、「博物館で野外シネマ」(10/3、東京国立博物館)。その名のとおり、博物館の野外で映画を見る。東博本館の正面中心にスクリーンを吊り下げて、周りにパイプ椅子を並べる。明るいうちから椅子はいっぱいになって、椅子なしの人たちは、正面の植え込みも含めて、空きスペースに適当に座ってなんとなく見る感じ。周りに軽食の屋台も少しある。クリーンだがフェス的な雰囲気も。
 作品は杉井ギサブローの「銀河鉄道の夜」! その手があったか! ゴーン、と始まるオープニングが、異様な雰囲気を漂わせて良い。街パートのジョバンニはよく走る。突き出される足の回転と、ひたひた走る音が印象に残る。繰り返しの運動とひたひたと鳴る足音が銀河鉄道を呼ぶ。ジョバンニが動きを止めて横になると汽車が来る。歩かないジョバンニは汽車に乗って移動する、通り過ぎていく諸々を見る。本人は座ってるだけ。章の転換を告げる不気味な車輪の音。
 決して作品を良い環境で見る機会ではない。スクリーンは意外と小さく感じたし、音は割れていた。日は落ちていたが、当然真っ暗というわけではないから、周りの景色が少し見える。スクリーンが景色の一部分になるから、作品への集中度は相対的に下がる。だから、なんとなく作品から自由な雰囲気があって、ちょくちょく話し声が聞こえてきたりする。作品を見て何かを話したくなることくらいあるに決まっている。映画の前のあのマナー広告、ウザいですよね。映画館とはなんとも不自由な空間なのだなあと、改めて。
 司会によると数千人が集まっていたそうで(正確な数字は忘れました)、これほど多くの人が集まって一つの映画を見るのは珍事ではないかとのこと。その数千人が、エンディングで常田富士男の声にビビらされる。集中を強いない空間にあって、注意を向けざるを得ない感じ。そのパワーを出す作品。
 個人的には、真下耕一がコンテ担当の一人ということで出会った作品。そういう需要もある。

 もう一つは、「『2001年宇宙の旅』ライブ・シネマ・コンサート」(11/25、Bunkamuraオーチャードホール)。これもその名の通り、オーケストラの生演奏で映画を見る。作品はもうコレ、最適というか真打ちというか、最強である。というわけで、スクリーンの前に本当にオケがいる! 上映時は、ホールの照明を落として、演者の手元に小さな電球色の照明をつけるスタイル。やや明るいが、映像が見えないということはない。
 でも少し明るいから宇宙が黒くは見えない。モノリスも完全な黒ではない。上の博物館のときと比べると、ちゃんとしたホールでやっているわけで、こちらの不自由さは映画館と同レベルだから、まあ見えなくてもいいか、と寛容にはなれない。気になることは気になる。しかしそんなことより本当に演奏してくれるのだから贅沢だ。本当に歌ってくれるから贅沢だ。あのモノリス的音声(?)にゾクゾクしないわけがない。ボーカル強し。
 わざわざこんなやり方で見せてくれるから、聴覚を根拠にして映像がカッティングされていくのがよくわかる。音楽が終わるから、シーンが変わる。演奏箇所が近づくとオケや合唱団が準備するから展開の予備動作みたいに感じられたのが面白い。サルとリゲティ。宇宙船の回転同期と、美しく青きアレ。鳥肌が立つ。パンフに書いてある。「回転運動の優雅な美しさを表現するのに、『美しく青きドナウ』以上の曲は考えられない」。そうなの?……そうかも。と思ってしまうから最高である。
 最もグッと来たのはラスト。この映画、スタッフロールが終わり、「THE END」の文字が消えても終わらない、なぜなら、まだ音楽が続いているから。真っ黒の画面に音楽が流れ続けるが、ここでホールの照明が回復してくる! オケが見えてくる。映像の推進根拠=その一要素でしかなかった音楽が、視覚的に、動きを伴って、この目の前に現れる! 視線は宇宙的に真っ暗なスクリーンから、動きで音を作る人間たちに降りてくる。聴覚と視覚の位相が組み替えられるのを感じる。奏者の動きが、その技が見える。音楽が映像を貫通する。カッコ良かった。
 個人的には、映画館で涙が流れたいくつかの作品のひとつ。そういう思い入れもある。

グラディウスV(メモ)


※映像は拾い物

今年7月にめでたく10週年を迎えた。いま遊んでもレトロな感触は全くない。

① 0:03-、開幕空中戦。まずは音。「Emergency! Emergency!」の音声と、何やら不穏な音楽。音声を聞き取るのはちょっと難しいが、普通にプレイしていても「Bacterians」とか「extermination」とか言っているのが聞こえる。マテリアルな背景が赤みを帯びて緊張感を煽る。これはバクテリアンの奇襲に対するスクランブルなのだ。
……敵の隊列はシリーズの伝統を踏襲しているが、いきなり要塞面っぽい背景と、メロディのはっきりしない音楽が、新たな展開を予感させる。描きこまれた軌道上ステーションの背景と「斑鳩」冒頭の射出装置の類似が予感を高める。

② 0:30-、ここまで概ね横向きにスクロールしてきた背景が縦向き(上方向)に変わると同時に、下から敵が回転しながら追撃してくる。敵の浮上に応じた方向転換。この一瞬のゲーム上の「間」を利用して、ステーションの切れ目から母星の姿がチラリと見える! だがすぐに敵の攻撃が始まり、視線は自機に戻される。美しい母星はすぐに見切れて見えなくなる。この変化と音楽が展開するタイミングがピタリと合うのが、痺れる。敵は母星の衛星軌道上にまで迫っている。我々はこれを撃退せねばならない。
……ビッグコアと惑星グラディウスの1面序盤での登場。自軍はギリギリの防衛戦を強いられている。画と音で画面内にプレイヤーを引き込む決定的なポイント。

③ 1:00-、ステーションから出る。またゲーム上の「間」に、母星の姿を見せてくれる。背景スクロールが止まり、音楽がブレイクしたところで、「This is Vic Viper T-301.」の音声。敵が全くいない、空白の時間の、この絶妙な緊張感! シューティングゲームは、敵から攻撃されていない時間が殆どない(けど絶対ある)ので、そういう時間にはそれまで見えていなかった背景や音楽の細部が強く印象に残ってくる(ワーニング画面とか)。その点、このゲームの特に1面は、実に緻密に組み上げられていてゾクゾク来る。
……初代のテーマの変奏が聞こえて、惑星グラディウスを背景に見ながら、「こちらビックバイパー」の名乗り口上。この厳粛なる雰囲気に燃えないはずはない。

④ 1:15-、敵は赤い球体。赤い敵と青い母星のコントラストが効果的。敵はたくさん出てくるが、守るべき母星はただ一つである。背景は母星が見切れないように動かされている。2:55-、音楽がフェードアウトし、ボスがワープしてくる。タイミングは完璧だ。
……上下の無限スクロールと赤い球体の組み合わせにゼロスフォース。ボスはいかにもな囲み回転キャラ。ワープアウトしてくるボスはこいつだけであり、2面と7面でビックバイパーが使うタイムワープと同じふうに出てくるあたり、因果なものを感じさせる。回転=ループするし。

⑤ 6:23-、2面空中戦。背景は衛星っぽい星。ノリノリな音楽。この後のデモシーンとの繋ぎを考えると敵配置がうまい。まず後ろから敵が出てくることで自機の位置が下がる。そこに前から赤ザコが来る。カプセルを拾うためには前に出なくてはならない。前に移動したところで、後ろからワープアウト。このことで、自機を追い抜いて何か凄いものがやってきた感じが出る(貼った動画では少し下がってしまったが、前進しきったタイミングでデモに入るとかっこいい)。1面でステーションの敵を撃破し、衛星方面に進撃するのかと思いきや、デモシーンでカメラはくるくる回り、母星に降下する敵艦を追う形になる。大気圏内戦闘。11:25-、敵戦艦から抜け出ると、その間に都市上空に着いている。ボスラッシュを通じて、ゆっくりと降下していく。
……「ありえない、何かの間違いではないのか?」と同時に聞こえる初代のテーマ。ナビコンピュータが「Vic Viper T-301」と言うのに対して、僚機の口上は「This is Vic Viper.」。最終面までの戦闘をこなしたプレイヤーは、識別コードなしの「ビックバイパー」そのものを名乗ることができるのだ。

⑥ 16:05-、3面。母星の都市に降下していく。降りてみると、宇宙から見えた美しい青は無く、見えるのは都市の無機質な青さ。都市を地下に降下していくシチュエーションは、縦方向のスクロールにうってつけ。22:10-、最深部には、さらに下方向に進んでいこうとするボスが居る。採掘ビームみたいなのを撃ってくるのがいい。
……惑星グラディウスの画。都市の無機質さはバクテリアン要塞と同じような印象も持つが(「要塞面ばかり」という声もあった気がする)、グッと来るのが背景に見える非常階段。階段はヒト型生物の存在を示唆するアイコン、バクテリアン要塞では見ることのない景色。モアイやら植物怪物やらがうごめく宇宙空間から、遂に惑星グラディウスの地表面までやってきたのだ。この階段がよく見えるのは17:00あたり、スクロール方向が横向きに変わるところで、またゲーム上の「間」を使って見せてくれる。

⑦ 24:50-、4面。遠くに母星が見えるがすぐに遠ざかっていく。生物的な敵の登場が、戦闘が新たな局面に入ったことを感じさせる。背景に大きく衛星が見え、自機はさらにデカい生物の穴に入っていく。月との組み合わせがエロくて良い。道中は、母星よりよっぽど生命に満ちている感じがする。

⑧ 32:43-、5面。このあたりから、ステージ間の繋がりはなくなり、自機がどのへんにいるのかわからなくなる。が、とりあえず母星から遠く離れたところまでやってきたのはわかる。36:25-、ボスのブラスターキャノンコアはこの作品の顔。あんな小惑星帯の前線基地に配備されているということで、その火力も納得できるところ。

⑨ 46:00-、6面ボスラッシュ。背景はもう具体的なかたちをとっていない。本作のMk-IIIは、交差レーザーを打つ前後できちんと砲台を動かしていて、芸が細かい。

⑩ 51:50-、7面前半、背景から何となく遠い宙域に来た感じが出ている。6面で異世界っぽい背景を挟んだことが効いている。要塞に入ってからは砲台の破壊音が気持ちいい。54:10-、中ボスのビーコンは絶対に長期戦になるから、前半と後半の明確な区切りとして効果的。後半の要塞面は、不安定に動き続ける背景と、ミニマルに繰り返す音楽が、敵の中枢に入ってきた感を醸す。背景=壁がよく動いていたように、壁コアももちろん動く。

⑪ 1:07:35-、タイムワープ後は、前に下から見上げた戦艦を上から捉える。だから背景には母星が見える。わざわざ母星の直上にワープしたから、この景色が見える。聞こえるアフターバーナーの加速音は一回だけ。今度は僚機より先に突入するのだ。

緊張と緩和の波が作品の時間を作る。シューティングゲームは、プレイヤー=鑑賞者に異常な緊張の連続を強いるから、緊張が緩和された「間」が映え、緩急ある映像のような時間を作れる。ゲームの中でも、時間の制御が完全に作品側にあるシューティングは、視覚と聴覚で映像を感じることができる一群。ゲームの「面白さ」は、何となく、鑑賞者に与えられる課題と報酬のバランスから出てきているような気がするが、ある種のシューティングゲーム(例えば、レイクライシスなど)には、鑑賞者が映像の創造に参加しているかのように感じられるという報酬がある。この報酬は緊張の連続に見合う快楽だ。グラディウスVには、そういう面白さがあると思う。

「桐島、部活やめるってよ」



 映画「桐島、部活やめるってよ」に対して、シネフィル的な人たちが「カメラがぶっ壊されたのに平然としてるのはおかしい」とか「撮影を中断して長々と話し込むなんてありえない」とか「本当に映画が好きなら『ロメロくらい見とけ!』とか意味のないことは言わない」とか「本当にゾンビ映画がやりたいならそもそも『生徒会オブ・ザ・デッド』とかいうダサいタイトルはつけない」とか言って評価を下げているのを散見する(気がする)ので、そしてそれは間違っている(気がする)ので、公開してからだいぶ経つ映画だが少し書いておく。

 この映画に対する最悪の誤解は、「スクールカーストをリアルに描き出した」みたいな、アホみたいに素朴な自然主義的反応である。この映画が描いたのはスクールカーストではなく、その秩序の不可能性だ。頂点のない三角形は三角形ではない=桐島のいないカーストは無効である。上下関係のない場所に人間関係はなく、カーストのないスクールに学園ドラマはない。だから映画部は自らゾンビ化し、未だにその秩序を信じる愚か者を喰い殺すのだ。喰い改めよ!

 だがここにはひとつの仕掛けがある。スクールカースト=必死な部活社会を脱臼させる視線が、映画部のカメラと重なっている「かのように」見えることだ。終盤になるにつれて、映画は映画部の活動の寄り添うようになる。だから観客は映画部(前田だっけ?)が主人公であると思う。スクールカーストとは無関係に、自分たちが本当に好きな活動に打ち込む映画部。いい青年たちだ。しかも彼らはカメラ=視線を持っていて、それが映し出すロメロシーンは、必死な部活連中をゾンビ化した映画部が噛み殺すというものだ。かくして主人公は映画の主題と合体し、この映画での正義になる。だからつい誤解する。でも彼らは映っているから主人公なのであって、映しているから主人公なのではない。

 中盤、バスケ三人組が駄弁るシーン。桐島を待つ必要ないのに何で俺らバスケやってんの?という問いかけに対して、一人は「バスケが好きだから」と答える。だがこの答えは間違いだ。「じゃあお前バスケ部入れよ」と返されてしまう。バスケ好きは「いや、そういうわけじゃないんだけど…」となってしまうわけだが、ここは「部活」の無根拠さを明らかにするいいシーンである。部活をやっている人間は、それが好きだから、それに長けているからその部活に入る、わけではない。「部活」をやりたいから、部活に入るのだ。バスケ部とは、バスケをする部ではない。「バスケ部」をする部なのである。

 これは別にひねくれた見方でもなんでもなくて、世の中みんなそのはずなのである。労働と重ねあわせても良い。労働をしたいから企業に入るわけではないだろう。企業に入って正社員になりたいから入るのだ。このことはみんなわかっているが、他人の前ではもちろん誤魔化す。他者の視線を内面化し、約束事の秩序に参入していくことが「社会化=大人になる」ということくらいみんな知っている。カーストはなくとも秩序があるかのように行動するのが大人のやり方だ。

 さて映画部である。ではそのカーストを斜に構えて見る彼らは「子ども」なのか?ここで冒頭のシネフィル的指摘が生きてくる。実はその指摘自体は正しい。本当の映画好きが、カメラを破壊されて平然としているはずがないのだ。映画をちゃんと愛していれば、「ロメロくらい見とけ!」とかいう、全く無意味なボンクラオタク的発言は、絶対しないはずなのだ。しかしこの指摘から導くべき結論は、映画「桐島、部活やめるってよ」の不備ではない。そういうことをやってしまった映画部の連中は、実は大したことない奴らだったという、この一点である。

 彼らは別に映画が好きだから映画部をやっていたわけではなかったのである。「映画秘宝」を読み、満島ひかりを夢に出し、「鉄男」を見に行ったりして、彼らは必死にシネフィルを気取る。だがそれは全部ウソだったのだ。「映画部」でありたいから、映画部的なことをやっていただけなのだ。つまり、彼らが距離をとっていたはずの「部活」に、見事に嵌りこんでいたわけである。映画のカメラは、「こいつら全員喰い殺せ!」とかダサいことを叫んでいる映画部の連中こそ、実は必死な部活充だったことを映し出す。彼らの「映画部」的な嘘がバレるこの瞬間は、まさに作品のクライマックスである。彼らはまさに桐島カーストの生き残り=ゾンビだったのだ。

 たまに悪評を見るゾンビ後のご高説シーンは、だからこそ成立する。あそこで前田が偉そうなのは、「スクールカースト下位のオタクでも好きな事を見つけてそれを頑張っているから」ではなくて、「スクールカーストという幻想を脱臼しうる視線を持っているから」でもなくて、たんに部活充だからである。「映画部」が撮りそうな映画を妄想の中で撮ったことで、前田は一気に部活世界=スクールカーストの頂点に立ったのだ。ああアホくさ。桐島はそういう「部活」をやめたのだ。

 きっとシネフィル的な人たちは、「わかってる」人間として描かれていた映画部を自分たちと重ねちゃったりしていて、なのにロメロシーンの前後で「わかってる度」がいきなり下がったことが気に入らず、冒頭のようなdisりをしてしまうのだろう。でも映す主体と映される主体の分裂って映画の基本じゃなかったの。

 要するに、文化部の連中なんて、噛み付きたいがためにマニア気取ってるゾンビみたいなもんなんですよ、ってこと。そんなことを描いてしまったこの映画はおそろしくすばらしい。
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