2012年10月

「中二病でも恋がしたい!」第3話・第4話

 演劇の話を持ちだしたことで墓穴を掘っている。電波少女が演劇部に適性を示したように、中二病は演劇的である。誰も気にしていないのに、他者の視線を過剰に意識して役者っぽく行動してしまう、自意識過剰の恥ずかしさ。過ぎたキャラ作りの痛さ=中二病。演劇部のシーンは、演劇コードに守られた「安全な痛さ」を制度的に遂行する演劇部員を、電波少女が「全力の痛さ=中二病」でぶち倒すという、それはそれで悪意的ないい場面だったのだが、相変わらず妄想世界では「全力の痛さ」ばかり見せられ、しかも映像がピュアにそれに乗ってしまうので、つい「そんな生真面目に描かなくてもいいんですよ」と声を掛けたくなる。たとえ勝負で中二病に負けても、演技が上手いのは演劇部員である(実際はあまり上手くなかったが。上手く描くべきだった)。

 面白いのは、からくりシャッターとか片栗粉とか、たまに「舞台装置」を見せるシーンが入ること。もともと観客に異様に媚びた動きを見せる京アニのキャラは演劇的というか役者的だし、構成の花田十輝は演劇的なキャラクターを動かすことを(たぶん)得意としているのだから、うまくいけば「演劇劇」になりそうなのだが、「どう描くか」=京アニの演出が中二病的すぎるからただの茶番になっている。上では「ピュア」と書いてみたが、もし4話でチア美女に対して「あいつの世界の中で凄いやつだと思わせればいいんだよ!」と「演技指導」をしていた主人公のような演出意図なら、これは視聴者への宣戦布告である。翻訳すれば「オタクどもの世界の中で凄い作画だと思わせればいいんだよ!」か?舐められてるな。

 でもチア美女のキャラはよかった。同じ境遇を打ち明けた主人公をちゃんと拒絶したのは偉い。だってほんとに寒いから。彼女はツッコミ役として適任である。主人公は「乗らないでください!」とか言っときながらノリノリすぎる。
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消えたシネスコ演出「(劇場版)まどか☆マギカ」

 シャフト=新房監督は小手先の演出が得意だ。黒板ネタとか字幕挿入とか、まあいろいろあるわけだが、そういう小ネタに混じってきちんと効果を発揮しているのが、画面アスペクト比をいじる演出である。

 初出作品を言い当てることはできないが、ワイドテレビが普及し、作品のアス比が16:9で安定すると、16:9の画面にレターボックスを入れてシネスコサイズにする演出を多用するようになった。「化物語」あたりでは、最終回がずっとシネスコだったりしたので意図がよくわからず、思いつきにすぎないようにも見えたが、「まどマギ」ではアバンと回想に用いることを徹底し、画面に根拠を与える”引用符”として機能させていた。

 例えば、10話の終盤、ほむらがワルプルギス4回戦に挑む場面。異空間からの転移を利用して画面をシネスコサイズにすることで、その場面がすでに描かれた時間=1話冒頭であることを明らかにした。

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10話。魔女を倒し、ワルプルギス戦に向かおうとするほむら。

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次のカット。すでにレターボックスは入っているが、異空間が暗いのでよく見えない。

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明るい通常空間に戻ると、レターボックスが入っていることに気づく。

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で、Magiaが流れ、1話冒頭の時間であることがわかるという仕掛け。お見事。

これはかなり冴えている。この「シネスコ演出」がさらに効果的に機能していたのが、11話のAパート、キュゥべえがまどかに対し「インキュベーターと人類が共に歩んできた歴史」を語る一連のシークエンスである。

 まどかの部屋。杏子とさやかはすでに死亡し、事情を聞く母親に「何も知らない」と嘘をついたまどかは、自室のベッドに倒れ込む。「この光景を残酷と思うなら、君には本質が全く見えていない」。かの「営業のテーマ」をBGMに語りはじめるキュゥべえ。人間と家畜の理想的な共栄関係。むしろ僕らは、ずっと君たちに対して譲歩しているよ。納得できないまどか。BGMが一旦切れる(このタイミングも素晴らしい)。「信じられないのかい?それなら、見せてあげようか!インキュベーターと人類が共に歩んできた歴史を!」。キュゥべえの両目から光が拡散し、まどかはキュゥべえの言う「歴史」を見せつけられる。

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まどかの瞳にキュゥべえが映り込み、両者の視線が合っていることが示される。

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キュゥべえの両目が発光。

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レターボックスが入りながら、カメラが引く。

 ここですよ!この、カメラを引きながらレターボックスを入れ、画面を16:9からシネスコサイズにしていく処理!

 この場面が特異なのは、まず画面サイズの変更が動的に行われたこと。少なくともまどマギではここが唯一の例であり、おそらく他の新房作品でもあまり見られないのではないかと思う。映像作品の画面の大きさを作品内部の論理で変更するというのは、画面サイズがフィルム撮影技術と深く関係していたことを考えると、たぶんシネフィル的な人にとっては絶対に認められない演出であろうが、デジタル制作のテレビアニメにはそんなことは関係ない。このデジタル感がいい。ふたつめに、画面のシネスコサイズ化、レターボックスの挿入、カメラワーク、そしてセリフまでもが複合的に演出効果を発揮した点にある。どういうことか。

 キュゥべえは言う、「それなら、見せてあげようか!」。両目から発光。レターボックス挿入。そして私たちはキュゥべえの用意した映像を「見せられる」。発言、発光、レターボックスの挿入からVTRまで、キュゥべえの能動的な動作が一連のシーンをなすことで、あたかもレターボックスの挿入までもがキュゥべえの意図によるものであり、キュゥべえがその権限を持った存在であるかのようにみえてくるのである。作品画面のアス比を変更する権限を持った、主人公たちとは一線を画す超越的なキャラクター。

 さらに、レターボックスの挿入と同時にカメラをズームアウトさせることが、この効果を増幅する。レターボックスを挿入する=画面を狭くすると、映っている画の範囲が狭くなるのだから、当然カメラが寄ったように見えるはずだ。しかし同時にカメラをズームアウトさせれば、画の範囲はほとんどそのままに、画の大きさだけが小さくなったかのように見える。私たちがそれまで見ていた景色=部屋のベッドにへたりこんでいるまどかが、そのままシネスコサイズの画面に収まる。つまりまどか(と、いままで見てきた世界全部)が、キュゥべえの創りだした映像に取り込まれてしまうわけだ。事実、キュゥべえVTRには、それを見せられているまどかが映り込んでいた。

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まどかがレターボックス=キュゥべえの引用符に取り込まれてしまった。

 こうして、キュゥべえによる語りは、自ら劇中劇映像を創り出し、それをキャラクターの脳に伝送し、さらにそれを見せられているキャラクター自身も取り込んで作品に投影する、語り手キュゥべえの超越性を示す場面に様変わりする。映画を想起させるシネスコサイズの画面を設定し、それに向けて光線=映像を投射する映写機のような位置にいるキュゥべえが「それなら、見せてあげようか!」と言ったとき、その言葉が向けられていたのは、目の前にいるまどかであると同時に、自らが創りだしたスクリーンの向こうにいる私たちでもあったわけだ。

 この場面は、BGMのタイミングや心音効果音やアップを連続させてから引くカット割り等々含めて、初見時から強く印象に残っていたところである。私見ではまどマギの最高潮と言うべき場面であり(この後のワルプルギス戦や「円環の理」はお話の後始末にすぎない)、キュゥべえによる最後の「タネ明かし」にあたるこの場面で、最後の「営業のテーマ」が流れるのは必然とも思っていたのだが、この文章の「最後」に劇場版に触れておくと、さすがに映画で画面サイズを変更するとかいうふざけた演出はできなかったようだし、さらになぜかBGMも変更されてしまい、ここで書いた要素はほとんど削がれてしまっていたのであった。そんなの絶対おかしいよ。


 余談だが、この場面は(も)、DVD版の段階で、テレビ版からいろいろと修正が加えられている(画像はDVD版)。特にキュゥべえが発する光線が、赤一色からレインボーに、カッチリした同心円から不安定な円に、それぞれ変更されていて、DVD版のほうが派手ではあるが、まっすぐこちらに向かってくる圧迫感のようなものは、テレビ版のほうがよく感じられた気がする。

梶浦由記に音響演出を丸投げする(なかれ)「劇場版まどか☆マギカ」

 まどマギ劇場版はひどかった。テレビ版ほとんどそのまま、特に工夫のない総集編。そもそも本編20分×12話=240分、前後編2本の映画にしたらそれって全部でしょうが。まどマギはプロット構成的にも映像演出的にもテレビアニメという入れ物に最適化された作品だったわけで、これならテレビ版を上映したほうがよっぽどよかった。20分で1ブロックのプロットをそのまま流用して、それで映画になるわけがない。テレビ版OP挿入はどうみても無理がある。

 あとは梶浦由記の音楽を堪能するしかないしそれが最大の魅力になる。梶浦本人によると新曲は全て映像に合わせて作曲されたようで()、新曲部分のハマり具合は素晴らしかったが、当て書きシーンとそうでないシーンで、音響演出のクオリティにかなり差が出てしまった。もともと梶浦の楽曲はそれ自体に存在感がありすぎるから、ちゃんと演出しないと映像がチグハグになる。まどマギはテレビ版からしてうまくいっていなかったし、よかったシーンも劇場版で変更されてしまった(さやかと杏子が初めて出会うシーンとか、キュゥべえが家畜の比喩を持ち出すシーンとか、ワルプルギス戦の2曲目とか)結果、なんだか微妙な印象になってしまった。

 梶浦本人に当て書きさせるのは、だから諸刃の剣なのだ。バランスがとれなくなるし、逆に映像と合いすぎていてPVみたいに見えてしまう=注意を引かなくなる危険もある。これを回避するには、全編当て書き、かつ映像を最初からPV的に構成していく必要があり、これを本当にやってしまった「空の境界」では奇跡的な映像が出来上がっていたが、普通そんなことはできないしやらない。音楽と映像の間に緊張関係を保ちながらも、その関係性を原理として映像を構成していくことこそ、楽曲の魅力を最大限に引き出す音響演出ではなかろうか。私見では、梶浦の強力なサウンドトラックをきちんと制御できていたのは、現在のところ真下耕一監督作品だけである。

 いくら当て書きのクオリティが高くとも、音響演出を梶浦由記に丸投げするなかれ。梶浦音楽を採用しつつ、それと闘う映像がみたい。もちろん「空の境界」的な、全編当て書きの梶浦ミュージカルもまた見たいけれど。

 スタッフロールのKalafinaは、久々に人外な曲でよかった。この映画で一番興奮したのはスタッフロールである。


「中二病でも恋がしたい!」第2話

 どこかで見たお話、どこかで見たキャラデザ、どこかで見た動かし方、どこかで見たOP/EDに、どこかで見た戦闘シーン。これら「どこかで見た」映像ばかりであること自体は別にどうでもよい。

 よくないのは、「※イメージ映像です」みたいな「お断り」を視聴者に強いる演出しかできていないこと。おたまと傘の殴り合いにすぎない喧嘩を、延々と中二病的な戦闘シーンに妄想していたのは、電波美少女ではなく京アニ自身である。だってあの映像は嘘だったんだから。しかもただの嘘だったんだから。

 要するに、虚構内での虚構の描き分けが、ものすごく下手なのである。これ、「氷菓」第1話でもやらかした。気になる人の髪の毛が伸びて絡みつくシーン。数秒だったからまだよかったものの、挿入された映像には、こちらが「※イメージ映像です」とフォローして根拠を与えてやるしかなかった。そして今作では、そういうイメージ映像を延々と続けてしまった。映像が中二病化したら、中二病は描けない。それ普通のファンタジー。

 これなら「ハルヒ」の朝倉と長門のやりとりのほうが巧みだった。
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