2012年11月

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」をどう語る(とつまらない)か

①鬱グロ展開つまらん系
新劇場版から入ったひとに限らず、たとえば「旧版でシンジ君はずっとウジウジしていたが、新劇場版では自らの意志で戦うことを決断する。エヴァ的内向性を引きずっているアニメ界に自ら終止符を打つべく、また作品を時代に適合させてアップデートすべく、新劇場版はアッパーなシンジ君が大活躍する娯楽大作となるのだ!つか、「破」はそうだったのだ!なのに「Q」では昔の鬱展開に戻ってるじゃないかコノヤロー!」みたいな。こういうひとは往々にして「破」が大好きである。

②庵野がー系
「この14年という時間はですね、旧劇場版から「Q」までにかかった時間なわけです。旧版はアニメ史的にサードインパクト級の影響を残してしまった。で、14年かかってもう一度やり直そうとするんだけど、だが周囲のアニメ環境を見渡して愕然とする。もうめちゃくちゃで、何がどうなっているのかわからない。時代に取り残された感じがする。しかも、それを自分のせいにされる。もうアニメなんかにかかわりたくない!そこに現れるカヲル君。「気持ちいい音が出せるまで、何度も繰り返せばいいんだよ」。そうか!かくしてエヴァ再起動。もうフォースインパクトはないって宣言。つまりシンジ君=庵野監督なんですよ!」。だから?

③ちゃぶ台返しもうええわ系
ふつう、この映画を見たら、「ああ、庵野はやっぱりこのパターンか」みたいな感想を持つだろう。マリの言葉を借りれば、「うわ~もうしっちゃかめっちゃかだよ~」。しかし庵野監督はこれにものすごくこだわりがあるらしく、上の①的期待を裏切って、またちゃぶ台ひっくり返し系、無に帰すパターンできた。同じパターンでやられたら、もうええわ、となるのが、たぶん正しい。そんな「正しい見方」には抵抗しなければならない。ではオタクはどうするのか?庵野監督のこだわりをいじくりまわそうとするだろう。たしかに描かれていたのは、ちゃぶ台ひっくり返しであった。それはどう描かれていたか?どうひっくり返したか?

④ループ系
たとえば、カセットプレイヤー。「序」では再三巻き戻されて再生を繰り返していた=「序」は旧版とほぼ同じであった。「破」でプレイヤーは壊れる。シンジ君みずから捨てる。で、綾波が特攻して消滅=「破」は旧版から逸れ、新たな展開へ。繰り返しは止まり、いろんな意味で過去の亡霊=レイと共に消滅。だが「Q」で、テープは(やはり綾波の手で)再びシンジ君に戻される。鬱期に入ったシンジ君はまたテープを再生し始める。が、このテープは最後まで再生されない。少なくとも、巻き戻される描写はない。アスカの手でプラグから引きずり出されたシンジ君は、テープを落として=捨てていく。だが、やはり綾波がそれをもってついていく…。

⑤「フォースインパクトはないよ宣言」としての、
軽快なちゃぶ台返し。というか、ちゃぶ台の重さそのものをゼロにする=無に帰す。最後はサービス回=エヴァ無双なの?できれば親父の部屋は発艦していただきたい。
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「中二病でも恋がしたい!」第6話・第7話

 今時トラウマ電波美少女とか、この退行しました感、父親の死とか「来い!」とかすべてがどうでもよく、もうドン引きするしかない「中二病」だが、ちゃんと6話の「引き」はメモしておこう。カメラの引きのこと。

 6話は演出的にはいろいろおもしろい回だったが、何より中二病=茶番と演劇を描きわけていたのが良かった。これは観客がいれば演劇で、いなくて内輪(またはひとり)で自己完結していれば茶番、という単純な話ではない。テレビのバラエティ番組の茶番臭を嗅いでみれば良い。大勢の人間に見られることを意識しまくった結果、「ちゃんと見られてることを意識してますよアピール」としてのガヤ音やらテロップやらツッコミやらを入れすぎてもう何が何だかわからなくなり、逆に圧倒的な茶番世界を創り上げている。そしてネットがそれに乗る。却って痛い。だから見られていればいいという問題ではない。

 乗ること=他者の応答を(勝手に)期待しているかどうかが問題なのだ。たとえば、twitterとかでよく見る、「ボクのことどう思いますか」的なタグを本当にやってしまうのが、痛い。他者の応答を前提とするなんぞ、はっきり言って傲慢である。普通、その辺の奴がなんか変なことを言ったとしても、放っておく。放っておけばいいのだ。ほっといてくれよ、である。いちばん痛いのは「ツッコミ待ち」、誰も気にしていないのに、ツッコミ待ちで勝手にボケる。痛い。これぞ中二病。

 たとえば学級裁判で坊主がヘンな演説をしても寒くなかったのは、きちんとまわりに観客がいたから。彼はすでに注目に値していたから、他者の視線を意識しても痛くない。カメラが回りこむシーンでは、窓の外の風景をトバしてきっちり演劇的な空間を作っていた。

 で、部室で頭を刈るシーンにいく。ここで女子連中を部屋から追い出してから、カメラが一気に廊下の端まで引く。この作品ではじめてまともな「引き」が見られたこのカットがあることで、現にだれも彼らを見ている人間はいないし、部室は他者からかなり隔絶された場所であることが示され、彼らの「痛さ」あるいは「寒さ」を、こちらは笑って見ることができるようになるわけだ。引きがない今までの映像は、完全にツッコミ待ちだった。誰に突っ込まれるのを待っているのか?われわれ視聴者である。カメラを「視線」として無自覚に流用し、こちらに応答を迫る傲慢な映像。アホなら「凄いやつだと思わせ」られるかもしれないが、普通寒いでしょう。あの戦闘シーンとか、寒かったでしょう。「京アニ自身が中二病」とは、こういうことである。

 6話には森サマーの瞬間移動とか、他にもいいポイントがあったのだが。そういえば彼女、2話くらいまでウインクを何回か使っていて、ウインク=瞬間的隻眼なわけで、なんとなく対称関係を匂わせてた気がしたんだが、やらなくなってしまった。しかし森サマー、中二病連中に「寒っ」ってツッコむんなら、「おぼえてなさい!」とか言っちゃだめだよ。お前が寒いわ!

 どうでもいいけど、どうでもいいキャラをやらせたら、保志総一朗はすばらしい。で、この6話のあとにあの7話は、つらい。

「桐島、部活やめるってよ」



 映画「桐島、部活やめるってよ」に対して、シネフィル的な人たちが「カメラがぶっ壊されたのに平然としてるのはおかしい」とか「撮影を中断して長々と話し込むなんてありえない」とか「本当に映画が好きなら『ロメロくらい見とけ!』とか意味のないことは言わない」とか「本当にゾンビ映画がやりたいならそもそも『生徒会オブ・ザ・デッド』とかいうダサいタイトルはつけない」とか言って評価を下げているのを散見する(気がする)ので、そしてそれは間違っている(気がする)ので、公開してからだいぶ経つ映画だが少し書いておく。

 この映画に対する最悪の誤解は、「スクールカーストをリアルに描き出した」みたいな、アホみたいに素朴な自然主義的反応である。この映画が描いたのはスクールカーストではなく、その秩序の不可能性だ。頂点のない三角形は三角形ではない=桐島のいないカーストは無効である。上下関係のない場所に人間関係はなく、カーストのないスクールに学園ドラマはない。だから映画部は自らゾンビ化し、未だにその秩序を信じる愚か者を喰い殺すのだ。喰い改めよ!

 だがここにはひとつの仕掛けがある。スクールカースト=必死な部活社会を脱臼させる視線が、映画部のカメラと重なっている「かのように」見えることだ。終盤になるにつれて、映画は映画部の活動の寄り添うようになる。だから観客は映画部(前田だっけ?)が主人公であると思う。スクールカーストとは無関係に、自分たちが本当に好きな活動に打ち込む映画部。いい青年たちだ。しかも彼らはカメラ=視線を持っていて、それが映し出すロメロシーンは、必死な部活連中をゾンビ化した映画部が噛み殺すというものだ。かくして主人公は映画の主題と合体し、この映画での正義になる。だからつい誤解する。でも彼らは映っているから主人公なのであって、映しているから主人公なのではない。

 中盤、バスケ三人組が駄弁るシーン。桐島を待つ必要ないのに何で俺らバスケやってんの?という問いかけに対して、一人は「バスケが好きだから」と答える。だがこの答えは間違いだ。「じゃあお前バスケ部入れよ」と返されてしまう。バスケ好きは「いや、そういうわけじゃないんだけど…」となってしまうわけだが、ここは「部活」の無根拠さを明らかにするいいシーンである。部活をやっている人間は、それが好きだから、それに長けているからその部活に入る、わけではない。「部活」をやりたいから、部活に入るのだ。バスケ部とは、バスケをする部ではない。「バスケ部」をする部なのである。

 これは別にひねくれた見方でもなんでもなくて、世の中みんなそのはずなのである。労働と重ねあわせても良い。労働をしたいから企業に入るわけではないだろう。企業に入って正社員になりたいから入るのだ。このことはみんなわかっているが、他人の前ではもちろん誤魔化す。他者の視線を内面化し、約束事の秩序に参入していくことが「社会化=大人になる」ということくらいみんな知っている。カーストはなくとも秩序があるかのように行動するのが大人のやり方だ。

 さて映画部である。ではそのカーストを斜に構えて見る彼らは「子ども」なのか?ここで冒頭のシネフィル的指摘が生きてくる。実はその指摘自体は正しい。本当の映画好きが、カメラを破壊されて平然としているはずがないのだ。映画をちゃんと愛していれば、「ロメロくらい見とけ!」とかいう、全く無意味なボンクラオタク的発言は、絶対しないはずなのだ。しかしこの指摘から導くべき結論は、映画「桐島、部活やめるってよ」の不備ではない。そういうことをやってしまった映画部の連中は、実は大したことない奴らだったという、この一点である。

 彼らは別に映画が好きだから映画部をやっていたわけではなかったのである。「映画秘宝」を読み、満島ひかりを夢に出し、「鉄男」を見に行ったりして、彼らは必死にシネフィルを気取る。だがそれは全部ウソだったのだ。「映画部」でありたいから、映画部的なことをやっていただけなのだ。つまり、彼らが距離をとっていたはずの「部活」に、見事に嵌りこんでいたわけである。映画のカメラは、「こいつら全員喰い殺せ!」とかダサいことを叫んでいる映画部の連中こそ、実は必死な部活充だったことを映し出す。彼らの「映画部」的な嘘がバレるこの瞬間は、まさに作品のクライマックスである。彼らはまさに桐島カーストの生き残り=ゾンビだったのだ。

 たまに悪評を見るゾンビ後のご高説シーンは、だからこそ成立する。あそこで前田が偉そうなのは、「スクールカースト下位のオタクでも好きな事を見つけてそれを頑張っているから」ではなくて、「スクールカーストという幻想を脱臼しうる視線を持っているから」でもなくて、たんに部活充だからである。「映画部」が撮りそうな映画を妄想の中で撮ったことで、前田は一気に部活世界=スクールカーストの頂点に立ったのだ。ああアホくさ。桐島はそういう「部活」をやめたのだ。

 きっとシネフィル的な人たちは、「わかってる」人間として描かれていた映画部を自分たちと重ねちゃったりしていて、なのにロメロシーンの前後で「わかってる度」がいきなり下がったことが気に入らず、冒頭のようなdisりをしてしまうのだろう。でも映す主体と映される主体の分裂って映画の基本じゃなかったの。

 要するに、文化部の連中なんて、噛み付きたいがためにマニア気取ってるゾンビみたいなもんなんですよ、ってこと。そんなことを描いてしまったこの映画はおそろしくすばらしい。
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