2013年02月

数字とアイドル(部)活動「ラブライブ!」第7話

 第7話のストーリーはシンプルだ。アイドルの甲子園たるラブライブが開かれる→理事長に出場許可を貰いに行く→条件は赤点回避→勉強。会長のエピソードが挟まれるが、メンバー加入には至らず。最後には試験の結果が明かされ、見事赤点回避。めでたしめでたし。以上、このストーリーは何も面白くない。穂乃果が最終的に赤点を取らないことはわかりきっているから、お話が映像の推進力になりえないのだ。だから点数開示前の溜め:「もうちょっといい点だったらよかったんだけど…」は寒いし、同級生二人がハラハラしているのも白々しい。いや、お前ら一緒に答案返却されただろう。

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ペンも持たずに数学が勉強できるか!

 問題はお話が面白くないことではない。ふつう、このようなストーリーからは、赤点回避という結果ではなく、それまでの過程、すなわち努力(あるいはサボりなど)を軸にプロットを構成する。ここにはいくらでもドラマが場を持つ可能性があるからだ。というか、この作品自体が、わかりきっている結果(μ's結成とメンバーの固定)に至るまでの過程にドラマを置く構造を持っている。μ'sに会長が加入することは、ラブライブのコンテンツ展開を知らなくても、OPを見れば一発でわかる。重要なのは、結果ではなく過程なのだ。

 ところが第7話の映像は、努力する彼女たちを放置する。勉強合宿という恰好のイベントも、開催だけ匂わして描かない。なんか知らん間に穂乃果たちは学力を上げ、赤点を回避してしまう。数少ない勉強シーンで、各々のキャラが掘り下げられたとも言いがたい。つまり、「赤点回避」というストーリーが、ほとんどドラマを生み出していない。試験勉強の作用は、副会長が準メンバー化したことと、会長+妹と接触する役割が、穂乃果ではなく、ここ数話で顔芸キャラと化していた海未に割り当てられたことくらいであり、これは別に試験イベントでなくてもよかったように思える。ではこの「赤点回避」のお話が用意された理由は何か?

 ここで第7話に描かれたもう一つの「数字」に注目しよう。作中のイベント「ラブライブ」と、それが依拠しているランクシステムだ。「ラブライブ」にはランク上位20位までのスクールアイドルが出場し、ナンバーワンを決定する……らしいが、第2話からたびたび登場するこのランクシステムが、いったいどんな制度なのか、これまで一切説明がない。それどころか、主人公であるμ'sの順位さえ、まったく明かされることがない。穂乃果たちがアイドルを始めた最初の動機が廃校阻止だったことを考えれば、彼女たちの活動が外部にどのように評価されているのかは重大な問題のはずだし、話数ごとに順位を上げていくさまを見せることだってできたはずだが、しかしわざとらしくモニタは隠され、「順位が上がってる!」とか、「急上昇のピックアップスクールアイドルにも選ばれてるよ!」とか、あいまいなセリフでごまかされてしまう。肝心の現在順位はさっぱりわからない。

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順位を見た反応は描かれるが、モニターは隠されたままだ。

 その代わりに描かれるのが、真姫を出待ちする少女たちの姿だ。ランクを見た真姫が出待ちエピソードを語るのは、この二つが「活動の成果」として繋がっているからである。真姫を出待ちする少女たちは、動画のコメントを除けば、初めて具体的にあらわれた外部の反応だ。身長から推測するに、おそらく中学生だろう。つまり高校進学予備群だ。中学生の出待ち少女の出現は、所期の目的=廃校阻止への成果を意味する。決定的なのは会長の妹だ。会長の妹は、もっと直接的に、μ'sを見たことで、その高校への進学を考えている。それどころか、μ'sへの加入も決意しかけている。数字が明らかにされなくても、アイドル部の活動にはきちんと成果が出ているのだ。アイドル活動の成果は、数字ではなく、動きのある映像として描かれている。

 そう考えると、試験イベントを設定しながら、努力の過程が描かれなかった理由もわかってくる。試験は数字で決まる世界だ。結果が全てであり、過程は価値を持たない。いくらがんばっても赤点なら赤点だし、がんばらなくても合格なら合格だ。一方、アイドル活動(さらに言えば部活動一般)は、「ラブライブ!」という作品自体がそうであるように、結果はどうでもいいのである。たとえ結果がわかりきっていても、そこに至るまでの過程がドラマを生み、私たちを惹きつけるのだ。ここで穂乃果が異様に数字に弱いことを思い出そう。彼女は「やっぱ確率だよ~!」と意味不明な言葉を吐き(5話)、数学を勉強するのにペンを持たず、七四は26なのだ。そのくせ使っている参考書は『大学受験のための数学』なのだ。数字とは対極的な世界にいる穂乃果たちは、結果ではなく、過程によって人を惹きつける。そしてその成果は数字ではなく、応援や出待ちといった動的なかたちであらわれる(第6話のスペック競争で、数値的にはほとんど差がでなかったことを参照してもいい)。第7話では、「試験勉強」と「アイドル活動」、すなわち「静的な数字による結果の世界」と「動的な活動による過程の世界」を、赤点回避への過程を描かないことで対照して見せたのだ。

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成果は数字ではなく動的なかたちであらわれる。

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制服から考えて、同じ中学だろうか。

 これは作品の根幹に関わる。アイドル部の活動が認められて、生徒会の活動が認められない理由はここにある。生徒を集めて廃校を阻止することが目的なのか、輝かしい高校生活を送ることが目的なのか(1話)。笑顔を見せることが目的なのか、笑顔にさせることが目的なのか(5話)。アイドルに向いているからやるのか、アイドルをやってみたいからやるのか(4話)。理事長が「簡単なことよ」と言ったこの事実が会長にはわからない。だから「素人にしか見えない」→人を惹きつけられない→認められない、となってしまう。しかし素人にしか見えないという結果は、はっきり言ってどうでもいいのだ。人を惹きつけるのは、結果ではなく過程である。数字という結果よりも、(部)活動という過程のほうが、何倍も価値を持っていることは、この作品を見ればすぐにわかることなのだ。というわけで、第7話でイマイチだったのは、会長のバレエが本当にうまいのか、なんだかよくわからなかったことだろう。「ショックを受けた」という言葉でしかあらわれない映像は、それこそ人を惹きつけない。

PVとしての「ラブライブ!」第6話

「ラブライブ!」第6話は、最後に楽曲パートが入った。1話、3話に続いて3回目だが、映像中の扱いはそれぞれ違う。1話はミュージカル、3話はライブ、6話はPVだ。1話と3話は単純にそうとは言い切れないが(特に1話)、6話の楽曲パートがPVなのは確実である。最後のシーン、会長はすでにPVとしてアップされた映像をネットで見ていた。ではどこからがPVだったか?

 どこからPVだったのか? 映像がPVだとわかった瞬間に、第6話はこの疑問をもとに再解釈されはじめる。すると、いやそれは当然曲が流れて衣装を着た穂乃果が映るカットから……と単純には言い切れないことにすぐに気づく。ひとつ前のカットを見ると、ひとりでに扉が開き、光で満たされた劇空間にカメラが入っていく。これはいかにもPV的だ。ではもうひとつ前、穂乃果が「じゃあ、始めよう!」と宣言するカットは? このカットが鍵になる。少し前から見てみよう。

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 階段を駆け上り、練習場所の屋上に向かう穂乃果。セリフを割り当てられた他の部員は、穂乃果より後ろを歩いている。彼女らの視点に立つカメラは、階段を上る穂乃果の姿を見上げるようにして捉える。さて問題のカット。穂乃果は階段を上りきったところで後ろを振り向き、「じゃあ、始めよう!」。これ、後ろを歩く部員に向かって、練習開始を告げているようにも見えるが、しかしそう考えるといろいろとおかしいのである。まず、(1)穂乃果は屋上に向かっているはずなのに、屋上のドアには背を向けて、反対側の壁を向いている。この構図は、屋上へ向かう自然な動作と言うよりは、ドアから差し込む光を捉える、いかにも撮影的な作為を感じさせる。そしてより決定的なことに、(2)部員たちが階段の下にいるはずなのに、穂乃果はまっすぐこちらを見ている。穂乃果は階段を上りきって振り向いた。部員たちは彼女より遅れて階段を上っている。ということは、もし部員たちに向けた発言なら、彼女は階段の下を見おろさなければならないはずだ。だが穂乃果の目線は虚空のカメラを見つめている。つまり穂乃果は、部員たちに次の時間=練習の開始を告げているのではなく、カメラの向こうに、次の映像=楽曲の開始を宣言しているのだ。

 さてこのカットをPVだと考えると面白いことがおこる。このカットは前のカットから連続した劇伴という接着剤で繋がれていていた。ではその劇伴が流れ始めるのはどこか? これはシーンひとつ前、部室で穂乃果が「(リーダーとかいなくても)いいんじゃないかな」と言うところだ。そしてここまで遡ると、もう明確に切れるところがない。PVの開始点は確定されないままどんどん遡っていく。それどころか、描かれている内容が、ことごとく最後の楽曲パートに収斂していくことが明らかになってくるのである。屋上で練習していた振付は実際に使われているし、みんながソロで歌うことも楽曲で実現している。お話を通して実質的なリーダーであることが強調された穂乃果は、センターは固定しないという体の楽曲の中でも、ちゃっかりどセンターを確保している。つまり第6話全体が、楽曲が成立するプロセスをドラマ仕立てで見ることができる、メイキングドキュメンタリー風のPVに見えてくる

 こうしてPVは最初のカットまで遡る。第6話の1カット目に描かれていたのは、真正面からレンズに映り込んだ穂乃果の姿だった。そのカメラを回しているのは、メンバーの凛だ。キャラクター自らがカメラを回すといういかにもメタな行動は、生徒会がメンバーにカメラを貸す条件としての取材、という設定である。これは副会長の「そしたらPVとか撮れるやろ?」というサジェストから導かれていた。つまり第6話の映像は、最初の1カット目から、映像的にも物語的にも、PVを構成するという目的に貫かれていたわけだ。

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 これは同じく楽曲パートが挿入された第1話とは全く違っている。第1話が穂乃果の能動的な動きを原理として構築されていたのに対して、第6話の映像は、全てが最後の楽曲パートに収斂する。逆に言えば、最後の楽曲パートを引き立てるために、全ての映像が並べられている。しかしこれは物語に引っ張られた結論ありきのショボイ映像を意味しない。なぜなら第6話は全体がPVに見えるように設計されていて、そもそもPVとは楽曲を引き立てることを原理にする映像であり、そしてこの構造が明らかになる鍵は、先に取りあげた終盤の1カットにあるからだ。「ラブライブ!」は、話数ごとに、映像の原理をいじってくる作品なのだ。

(追記)ここの二段仕掛けもよかった。

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作品内にカメラをぶち込んだからには、撮影者あるいはフレーム外から仕掛けるのは必然。

(=)二重否定のセンター高坂「ラブライブ!」第6話
(←)鬼の矢澤の入部試験<アイドルゲーム>「ラブライブ!」第5話

空気を読みすぎた天気「ラブライブ!」第5話

 大雪の予報が外れると日本人は怒り出すということが明らかになったが()、では降水確率60%の予報ではどうか? 梅雨入りした「ラブライブ!」の世界では、2日連続で降水確率60%の予報にもかかわらず雨が降らなかった。アバンの朝練シーン、黒髪の背景はとても梅雨とは思えないほどの青空だ。

 しかしOP後、同日放課後の練習をしようとすると雨が降り始める。穂乃果「降水確率60%って言ってたのに…」真姫「でも60%なら降ってもおかしくないんじゃない?」穂乃果「でも昨日もおとといも60%だったのに降らなかったよ」。ここで雨が弱くなる。穂乃果「やっぱり確率だよ~!」よくわからないが好きなセリフ。からの、犬のようにハアハアしてテンションを上げた凛のアクションシーン。

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 ここ、今まで出番が少なかった凛の唐突なキャラ付けにも見えるが、穂乃果が「PVみたいでカッコイイ!」と言ったこのシーンが成立するためには、かなり複雑な気象条件が要請される。ターンの水しぶきを映すためには、あらかじめ水たまりを作っておかなければならない。つまり事前に雨を降らせてから、凛を外に出すために一旦雨をストップさせ、ポーズが決まったタイミングで再び土砂降りにする必要がある。穂乃果は「練習する気満々だったのに、天気ももう少し空気読んでよほんとにもう…」と不満を漏らしているが、いや天気はじゅうぶんすぎるほどに空気を読んでいる。60%という微妙な数値は、この天候を呼び出すための呪文だったのだ。やっぱり確率だよ!

 誰かが「予報見たら明日も雨だって」と言っていたように、次の日(2日目)も雨。アイドル研究部の嫌な感じの先輩・にこの画面が増えるとともに、雨=鬱屈したにこ、のような関係が出てくる。3日目はもっとあからさまだ。仲の良い主人公三人組に対して、教室でも廊下でもぼっちのにこ。背景の窓の外は雨。暗い雰囲気のまま部室に入る。と、電気が点き(スイッチ押してなかったけど)、メンバーによる籠絡作戦が始まる。にこが半ば強引な説得に応じてメンバーに加わったところで、カメラが会長室に移動。副会長「見てみ、雨、やんでる」。次のカットで、光さす空から屋上で練習しているメンバーにつながる。目をうるませるにこ。こうしてにこは心をひらいて仲間になりました、めでたしめでたし…。

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 第5話の天気は一貫して空気をよく読んでいる。が、しかし、凛のシーンとにこの一連のシークエンスでは、天気の空気の読みのうまさはまったく違う。前半の凛のシーンで「雨→やむ→土砂降り」と変化する天気は、舞台を整えてキャラを動かす要件であり、そのシーンを成立させるための前提になっていた。ああいう天気だったからこそ、凛の見せ場が生まれたわけだ。だが後半のにこのシークエンスでは、雨はにこの気持ち的な何かを表しているかのように見えてしまう。そういう勘違いはよく見るが、天気と人物の内面とかお話の状況とかは全く関係ないはずだ。要するにさっきとは逆で、ああいうお話だったからこそ雨が降っていた、ということになっていて、天気がお話を説明する道具になってしまっている。前半のほうが巧みなのは言うまでもない。

 最後、屋上での練習シーンを入れるためには、やはり雨は上がらせなくてはならない。第5話で安易だったのは、屋上での練習を導く天気の変化を、にこの内面と接近させすぎたことだ。ではどのタイミングで雨を止めるか。それっぽい解としては、たとえば3日目、ぼっちのにこが廊下を歩く背景ですでにやませておき、雨滴が葉っぱから滴るカットでも入れておく、とか、副会長が「見てみ」という対象を、天気ではなく「屋上」くらいにしておく、とか。あるいは、2日目の回想終わりでやませて、やんでいるのに傘で顔を隠すにこを映してみる、とか。それに雨が止んでいることくらい、わざわざ「見てみ」とか言われなくてもわかる。

「天気→動き」は正しい。だが「動き→天気」は嘘だ。誰が何を思ったところで天気は変わらない。が、天気が変わればキャラクターは気持ちを変え動きはじめる。この関係は一方通行であり、逆走した映像は安易に見える。空気を読みすぎる天気は作品の質を落とす。

(参考)ラブライブ! 5話考察 -小さなラブライブ!- : 愛は太陽だよ!
穂乃果の目的の変化を追っている。天気についての指摘は、当記事への批判としても妥当的な内容。

(=)鬼の矢澤の入部試験<アイドルゲーム>「ラブライブ!」第5話
(←)まきりんぱなへ至る途「ラブライブ!」第4話(1)

「ラブライブ!」第1話:高坂穂乃果の躁鬱分解

 これ、衝撃を受けた人は多かったようで、既にいろいろ書かれてはいるが、いま一度、「ラブライブ!」第1話はすばらしかったとメモしておこう。キャラ紹介・背景説明・今後の展開への引き等々といった第1話的要素を最大限に詰め込みながらも、映像を総集編に貶めることなく、高坂穂乃果というキャラクターを主人公として撮りきった京極監督の演出……見事!



 映像が「お話」を説明する道具に成り下がると、それは「総集編」になる。そういう映像はクソである。大きな作品によくある、全体を2時間くらいにまとめちゃいました的な、映画未満DVDのつまらなさを思い浮かべればよい。映像を構成する原理を「お話」しか持てなかった不幸な作品は、最初から最後まで総集編的=物語説明的な時間を繰り返し続けることになる。

 だが「ラブライブ!」第1話はそうではないのだ。この映像のテンションは明らかにおかしい。1カット目からいきなり歌い出し、学校は廃校になり、主人公は倒れ、なんだかにぎやかなOPが流れ、しかしそれは夢で、かと思ったらやっぱり本当なのだ。書いているだけでわけがわからなくなってくるが、この数分間ですでに示されているのは、主人公・高坂穂乃果が、異様にリアクションの大きい(なんせ気絶したのだ)、テンション上下の激しすぎるキャラクターだということである。

 では彼女は25分間でどれだけネガ・ポジを行き来したのか? 全ては映像なのだから見ればわかる。高坂穂乃果のネガ・ポジ展開はこうだ。

O 開始曲
X 廃校を知る→倒れる
O 廃校が夢だと思う→スキップ
X 廃校が現実だと知る→叫ぶ
O 自分には関係ない問題だと知る→パン食べる
X 後輩にとっては重大な問題だと気づく→会長に尋ねる
O 入学希望者が集まればよいと気づく→学校のアピールポイントを探す
X アピールポイントがないことに気づく→机に崩れる
O 家に移動→あんこ食う、妹とバトル
X どうしようもないと言われる→電話
? 母のアルバムを見る→(1)
O 人気校に移動→アイドルを目撃
X アイドルを目撃→パンフ落とす、よろめく
O アイドルをやればいいと気づく→説得する
X アイドルはなしと言われる→屋上でたそがれる
O アイドル候補を見つける→歌を聞きにいく
X スカウトするが断られる→(2)
O 3人でやることに→会長に書類申請に行く
X 部活が認められない、どうすればいいの?→(3)
O 終了曲


この転換の激しさはただの痛い子を超えている。大げさな劇伴も手伝って、このキャラクターの動きを見ているだけでも楽しくなってくるが、ここでポイントは、

・出来事に対する反応としての躁鬱サイクルが見えてくること
・高坂穂乃果は必ず何らかの動作を返すキャラクターであること


この2点があればこそ、「ラブライブ!」第1話は、その情報密度にもかかわらず、総集編にはならなかった。言い換えればこうだ。

・「お話」ではなく、「高坂穂乃果の反応」が、映像の駆動原理になっている
・この映像は、「出来事」ではなく、「高坂穂乃果の動き」を追っている


高坂穂乃果の辞書にスルーの文字はない。動きでカメラを振り回す特権的な人物、これぞ主人公。「出来事」に対する「反応」をちゃんと描くことで、映像は「お話」ではなく「動き」を映しだすものに変化し、総集編化することを免れる。そして、このように構築された映像だからこそ、高坂穂乃果の反応が描かれていないようにみえる場面が、逆説的に意味を持ってくるのである。どういうことか。具体的に見てみよう。

(1)家で母親のアルバムを見る場面
 大仰な音楽とアルバムというアイテムが、学校への思いを掻き立てる……かのようなシーンだが、アルバムを見た高坂はなんの反応も見せない。間違っても「お母さんの思い出の学校を廃校にはさせない!」みたいな決意を口にはしない。ではこのアルバム=母親への返答はどこへいったのか? ちょっと前の妹とのやり取りがヒントになる。妹に人気校を受験すると告げられた高坂は、人気校のパンフに目を通してから、自分の学校に来ないことを抗議し、妹に「時間差すぎだよ!」と突っ込まれる。この何気ないやり取りが示しているのは、高坂穂乃果が、時間差ではあっても、出来事に対して必ず何らかの反応を返すキャラクターである、ということだ。これがアルバムにもあてはまる。

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 アルバム=母親への反応は、時間差で来る。この返答は、第1話全体、あるいは作品全体に先延ばされているのだ。高坂の注意は、写真の内容=母親の思い出ではなく、「アルバムを懐かしむ」という、母親の行為そのものに向けられている。つまり学校の存続云々ではなく、ちゃんと部活動をして、写真に写され、振り返り懐かしむことができるような、「輝かしい高校生活」(最初のセリフ!しかしアニメ版では彼女がこれまでそのような学園生活を送っていた形跡はない)を全うすること。これが高坂の回答なのだ。この回答が示されるのは、1話の最後のセリフ「やるったらやる!」であり、さらには作品全体を通して、ということになるだろう。アルバムに対する高坂の反応を描かないことで(=時間差で描くことで)、「輝かしい高校生活」を送るという、作品全体を貫く原理を浮かび上がらせたのだ。

(2)スカウトを断られたあと
 ここからカメラは主人公から離れ、脇役二人を追うことになる。いい話なんだかよくわからない回想を挟みつつ、アイドルをやるか決断を迫られるのだが、しかしこれ、結論はわかりきっている。やるに決まっているのだ。ここでショボイ作品なら、例えば回想でその気になった二人が、落ち込んでいる高坂を説得して決断する、というような展開になるのだろう。それが総集編的な、お話を説明するための映像だ。全ては逆である。高坂が再び映し出されたとき、彼女はすでに踊っている。回想なんかしている間に、彼女はもう動き出している。脇役ふたりはその姿を見て決断を下す。

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 つまりこの場面では、出来事とリアクションが反転していることになる。これまで高坂は、なにか出来事をうけて、カメラが映すべきリアクションを見せる存在だった。しかしここでは、高坂の行動が「出来事」になり、脇役が手を差し伸べる=アイドルをやる決断をすることが「行動」になっている。視点が彼女から離れていたことで、彼女の「行動」が「出来事」にスライドし、アイドル部のお話をスタートさせるという展開が、物語説明的な要因ではなく、彼女の動きから導かれている。彼女はアイドルになるから踊っているのではない。高坂穂乃果が踊るからこそアイドル活動がスタートする。

(3)最後、生徒会長にアイドル部の申請が却下されたところ
 急にミュージカル仕立てになるので流されそうになるが、注意してみると、ここで高坂は会長の決定に対して何も反応していない。彼女は押し黙ったまま、口元と後ろ姿しか映されない。「どうすればいいの?」と問いかけているのは、高坂以外の脇役たちである。どうすればいいの? 繰り返すように、お話的にはアイドルをやればいいに決まっているのである。だが高坂がそんなセリフを吐かないこともわかりきっている。先に自ら踊ることで展開を導いたように、ここでも彼女は自らの行動をもって作品を駆動する。彼女は振り向かず、カメラのほうが回りこむのが、最後のアシストだ。カメラは彼女の動きを捉えるために回される。どうすればいいの? 歌えばいいのだ。

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 だから「急に歌うよ」とかいってバカにしている場合ではないのである。それは二重に間違っている。これまで見てきたように、彼女は出来事に対して動きを返すキャラクターであり、彼女の動きを描くことが、映像が展開する理由だった。さて第1話の締めたるこの場面では、会長によってアイドル部設立が却下されている。アイドル部設立の却下が意味するのは作品の停止だ。脇役たちはこの作品停止という状況に「どうすればいいの?」と問いかけることしかできない。だが主人公は違う。主人公・高坂穂乃果は、自らの動きをもって作品を再起動する。条件は揃った。彼女は歌い出すことができるし、歌い出さなければならないのだ。確かに、このとき彼女が歌うことには、物語上の必要性は全くない。この作品のあらすじを説明するとき、ここで歌ったことは多くの場合触れられないだろう。だが彼女はいま歌うために歌う。カメラはその瞬間を捉えるために回りこむ。その動きが、映像が継続する根拠となる。フィクション上のただの画が、存在感をもって現れる。運動する、その瞬間の、その動き。踊り歌うことで作品そのものを動かしたとき、高坂穂乃果というキャラクターは、主人公=アイドルとして画面上に現れるのだ。

(→)なめらかな断絶を踊る「ラブライブ!」第1話
(←)「ラブライブ!」第1話(intro)