2013年08月

「君のいる町」第7話

 風間恭輔の病室は白い。壁も床もベッドも白い。だから影が現れる。クラスメイトからの手紙には、わかりやすく十字の影。飾られた花は白く、女が掴まる手すりも白い。着ている服も白い。肌色まで白い。だがこの白さは教室で奪われる。制服は冬服に変わり、白シャツが濃紺のブレザーになる。白壁は黒板に変わる。屋上の手すりは黒い。最後に、雨が地面を黒く濡らし、缶の影が消える。

 この作品にはアイキャッチがない。だからAパートとBパートの「間」は読み込まない。缶の影が消えた次のシーンでは、雨は既に止んでいる。主人公と明日香が、「待ってる」恭輔に会いに行く。道中の水たまりには空が映っている。明日香は捨てられた傘を飛ばす。雨は悲劇を準備するものではい。水たまりと傘によって、初めて悲劇が描写されうる。

 台詞で語られる、「あの時病院で一番泣いとったのはお前じゃなあか」。しかし映像で「あの時」は描かれず、代わりに時間を与えられたのは、歩く主人公と明日香、傘、水滴、水たまり。この道中には、恭輔の死を明確に示すものは何もない(雨とかクモの巣とか黒猫は、たんに雨とかクモの巣とか黒猫なのであって、別に「死」を意味するものでもなんでもない)。だが彼らが歩く時空間は、何かのせいで、これまでとは違ってしまった世界である。

 少なくとも、目を閉じた人間の画を映すよりは、彼らのいる町が現れている。

「ラブライブ!」総論:高坂穂乃果はなぜアイドルなのか

「ラブライブ!」のライブパートは、映像的な出来は総じて良いが、こちらを圧倒してくる訴求力があるかといえばそうでもない(ここは少しハードルを上げている)。そもそもアイドルは歌手やダンサーではないのだから……と理屈をつけることはできるが、少なくともμ's=高坂穂乃果のアイドル性は、パフォーマンスのクオリティや個人の能力に担保されたものではないとは言える(ついでに言えば、3DCG的に描き分け乏しくデザインされた容姿も、アイドルとするには物足りなく思える)。では高坂穂乃果のいったいどこがアイドルなのか?

観客不在のパフォーマンス

 今さら指摘するまでもないが、この作品には、μ'sのメンバー以外の登場人物がほとんど存在しない。男性キャラクターは当然のこと、家族や教員など周辺人物の描写も最小限に抑えられている。描写されないということは、その作品には存在しないということだ(作品世界にいたとしても作品にはいない)。アキバに集うモブも無個性なデザインであり、オタク的な特徴は排されている。他者が存在しないのだから、社会や地域との軋轢などもちろんない。つまり穂乃果たちからは、外部の世界がほとんど奪われている

 これはアイドルを扱う作品としてはかなり奇妙な事態である。主人公たちから外部を奪ってしまうと、アイドルモノには必須であるはずのファン敵役さえ描けなくなるからだ。実際、お話が盛り上がり、ランキング19位につけた11話の時点でも、明確にファンといえるのは神モブ三人衆と絵里の妹くらいである。全員関係者だ。敵役アイドルも、A-RISE以外はまともに描写されず、そのA-RISEもランキング1位であること以外はよくわからない。しかもより特徴的なことに、ライブパートにおいてすら、μ'sのパフォーマンスに盛り上がる観客が描かれることがないのだ(最終話は後述。8話と11話は、ライブパートの前後で観客の存在は描かれたが、ライブパート自体には登場しない)。特に1話は象徴的である。1話の最後、穂乃果たちは校外の公道で踊っているのに、そのパフォーマンスに引き寄せられるひとは一人もいなかった。言ってみれば、μ'sのライブは常に観客ゼロである。

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観衆の注目を集めるA-RISEと、無人の公道で踊る穂乃果たち。ここには物語内での人気の差というより、アイドルとしての在り方の差が表れているように見える。観客不在のパフォーマンスは、PVと解釈しても不気味だ。

 では観客が描かれないライブ映像はどんな効果を生んでいるのか。作品と視聴者=消費者の関係に注目すれば、それは主人公たちと消費者を一気に接近させる役割を果たしていると言える。物語の中に観客がいなくとも、その映像を見る消費者はいる。物語の層で「誰も見ていない」映像は、必然的にスクリーンを飛び越えて「俺だけが見ている」映像に変性する。μ'sと消費者は接近し、観客ゼロという物語内の評価が、消費者にとって不当なものと思われてくる。消費者は「もっと評価されるべき」感を呼び起こされ、ここに商業主義的コンテンツ展開との強力な結託が生じる。

 この説明には一定の説得力がある。物語内の観客という中間項を消すことで、μ'sと消費者を近づけ、加えてまさに観客を消したことが、消費者の「もっと評価されるべき」感を煽る。そういう構造が見いだせることは確かである。だが(当然ながら)ここには「μ'sのパフォーマンスに対する物語内の評価(観客ゼロ)が不当である」という作品外からの評価が導入されている。この文章では、始めに「μ's=高坂穂乃果のアイドル性はパフォーマンスのクオリティに拠るものではない」との前提に立ったのだった。それはμ'sのライブに観客が描かれていないからだ。別にこの評価が不当だと思ってもいいのだが、ここでは映像そのものを素直に受け取る立場を採ってみよう。高坂穂乃果のアイドル性の根拠はパフォーマンスにはないのだ。実際、観客はひとりもいないのだから。

スクールアイドル=高坂穂乃果の在り方

 このブログでは、高坂穂乃果という主人公を、「お話」を成就させるために物語内を動くキャラクターではなく、物語を食い破り、自らが映像の駆動原理として振る舞うような存在として見てきた(第1話)。各話の記事においては、「過去/未来」「結果」「評価」に対して、「いま」「過程」「活動」といった言葉をポジティブに用いて、彼女の在り方を書きだそうとした。例えば、第3話。Aパートで、穂乃果は(海未との約束を破ってまで)練習成果の披露にこだわる姿勢を見せていた。つまり、過去の努力の意味付けへの強い意志を持っていた。しかしライブを経験することで、彼女の目標は「いま・ここにいる・この思い」を伝えることに変化している(外部の観客が描かれないライブであっても、穂乃果が花陽が来るまで歌い出さなかったことを考えると、この作品は上に書いた「誰も見ていない=俺だけが見ている」構造を慎重に回避しているとも見える)。第4話では、「過去/未来」は「いま」に比して瑣末な問題に貶されていたし、第6話で描かれたように、穂乃果がμ'sのリーダーなのは、スペック競争の「結果」ではなく、その「過程」が説得力を生んでいたからだ。第7話では、赤点回避の過程を描かないことで、数値的な「評価」に対する動的な「活動」の優位が示されていた。観客が描かれないライブパートは、「いま・ここにいる・この思い」以外の全てを「外部」として捨て置く、穂乃果の在り方が端的に示されている映像なのだ。

 このように穂乃果が動く映像の中で、彼女たちのパフォーマンスは、断絶した時空間を接続し、映像の連続性を強制的に回復する役割を果たしていた。例えば、第2話。映像中で混濁した時空間は、仮歌のCDの歌声を以って統合されていた。第6話では、最後に挿入されたPVが、それまでに示された要素を収斂させ、映像が展開する根拠として機能していた。第1話のライブパートはやはり象徴的だ。ライブパートを通して、穂乃果は語り手の声に追いつき、物語レベルから映像レベルに遷移する。ここでライブパートは、穂乃果が「物語内を動く存在」から一段上の「映像に現れる存在」へ移行するための、いわばハイパースペースのような役割を果たしている。歌と踊りのパフォーマンスが、映像の連続性を保ち、自身が活動する場をつくり出す根拠になっている

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登場人物の中で、穂乃果だけは、時おり映像の外を意識しているような素振りを見せる。彼女は物語内から抜けだした特別な存在である。

 このことが重要なのは、「いま」という時間に存在するためには、逆に幅を持った時間が必要になるからである。第3話で、穂乃果はアイドルを続ける=アイドルである理由として「いま・ここにいる・この思いを伝えたい」と叫んだ。しかしこれは非常に難しいプロジェクトだ。このプロジェクトに関する限り、「過去の努力の積み重ね」や「その結果としての外部からの評価」などは、全てどうでもよくなってしまう。素晴らしいパフォーマンスを見せたところで何の意味もない。「いま・ここにいる・この思い」を伝えるためには、更新され続ける「いま」のなかで活動し続けるしかない。そして、それを実行できる場は、一定の時間の幅を持ち、自らが活動によって現れることができ、何をしても受け入れてくれるようなワンダーゾーン的時空間、すなわちフィクションの世界しかありえないのである。高坂穂乃果的活動には映像作品という場が不可欠であり、同時に穂乃果的活動こそがその場をつくる根拠=映像の駆動原理になる。各話冒頭の掛け声:前回のラブライブ!」は、彼女たちが「ラブライブ!」という作品の場で「いま」活動していることを宣言するものなのだ。

アマチュアアイドルの夢と物語への帰還

 第7話で示された「数字=結果」の軸と「活動=過程」の軸というふたつの道は、前者の代弁者たる絵里が吸収され(第8話)、その絵里によってアキバという街が読み替えられたことで(第9話)、後者の穂乃果的な在り方のほうが選択される。ここでアマチュアアイドルの可能性が浮上してくる。この二者の関係は、換言すればプロフェッショナリズムとアマチュアイズムの対立である。μ'sは後者=アマチュアイズムの道を選択したのだ。だから「お客さんを笑顔にさせるのが仕事」と言いながら(これを言ったのはメンバー随一のプロ志向を持つにこだ)、彼女たちがファンのために行動を起こすことはほとんどない。数値的な結果や外部の評価を気にかけず、自己目的的に活動するスクールアイドルの在り方は、健全なアマチュアイズムを体現しているといえるものだ。だがアイドルは他者の注目を集めることが本質であるから、自己目的的に活動する「アマチュアアイドル」の在り方は、本来的な矛盾を抱えている。この矛盾は彼女たちを魅力的に見せると同時に、人気ランキングの順位=数値的な結果の「ラブライブ出場」や、入学希望者を増やす=他者の注目を集めることを目的とした「廃校阻止」の物語との間に、必然的に齟齬を生じさせる。けっきょく穂乃果は「ラブライブ出場」や「廃校阻止」のみならず、「アイドル活動」の物語をもぶち破り、最後まで「過程」の中にあろうとして、最低化する(第12話)。ここまで穂乃果の在り方は一貫している。

 しかしこのアマチュアアイドルの夢は、最後の最後で覆されるのである。最終回、穂乃果は満員の客席に向かって、新しい夢に向かって駆け出すこと」、すなわち「結果」を「終点」ではなく新たな「過程」の「起点」とすることを宣言し、μ'sがアイドルランキングに再エントリーしたところで、この作品は幕を閉じる。一見単なるハッピーエンドにも見えるが、これは作品を通して追ってきた穂乃果的な在り方=アマチュアアイドルの夢をひっくり返す事態である。アイドルランキングへの再エントリーは、外部の評価による競争の世界、すなわち市場への再参入を示すものだからだ。最終回のライブパートは、盛り上がる観客がついに姿を現し、周辺人物である教員や親、さらにはネットでそれを見るA-RISEまで描写され、明らかにこれまでとは違う論理で描かれている。要するに、普通のライブパートである。他者の視線を意識し、また観衆の視線を集める穂乃果は、極めてまっとうな登場人物として、「物語の層」で歌っている

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第13話のライブパートは、明らかにこれまでとは違う論理で演出されている。ランキングに再エントリーした穂乃果たちは、A-RISEと同じ土俵に立つ、まっとうな物語内アイドルとして還ってきたのだ。

 この最後の仕掛けこそ、穂乃果のアイドル性を証明するラストピースである。彼女は自身の在り方ゆえに、最後の最後でその在り方自体を否定する必要があったのだ。なぜか。穂乃果が穂乃果的な在り方を貫き通し、アマチュアアイドルの夢を追い続けたとすれば、それは「穂乃果がアマチュアイズムを選択する物語」になってしまうからだ。変化し続ける穂乃果は、まさに変化し続けるために、いかなる「イズム」の選択も拒み、自身が活動してきた作品という場からも離脱しなければならなかったのだ。彼女は言う:「歌うのはラブライブのためじゃない」。これは作品の駆動原理からの辞任表明であり、この撤退運動が、最後に残った物語=プロ/アマの二者択一を、その内側から食い破る。自らのパフォーマンスによって、物語より上位の、映像の層で動く存在=駆動原理に移行していた穂乃果は、いまアマチュアイズムの選択という物語からも逃れるため、作品から出て行き、逆説的に物語内存在へ還っていったのだ。高坂穂乃果の「いま・ここにいる・この思い」を伝えるプロジェクト:「輝かしい高校生活」は、彼女たちが駆け出す「新しい夢」への起点となった。ここに映すべき駆動原理を失った作品は、必然的に終了したのである。

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ライブそのものの映し方を見ても、最終話は、穂乃果を他のメンバーとともに「μ'sのひとり」として捉えたカットが多い(=「みんながセンター」が初めて実現した!)ような印象を受ける。これは作品における穂乃果の地位が変化したことと呼応するが、それでも他メンバーのソロパートで歌ってしまう穂乃果が楽しい。右:11話で振付をミスる真姫(関係ない)

 映像を自身が活動する場とし続けること。それは映像の定義上、カメラに収められ続けることであり、視聴者の視線を繋ぎ留め続けることである。穂乃果のアイドル性はこの一点にかかっている。容姿でもパフォーマンスでも評価でもなく、物語を成就させる主人公としてでもなく、映像の駆動原理となることで、視聴者の視線を集め続けること。物語の層より上位に出て、映像の「いま」のなかに在り続けること。ここに至って、最初の問いに答えると同時に、「ラブライブ!」の魅力を簡潔な言葉で書きあらわすことが可能になる。彼女はなぜアイドルなのか? 結論、高坂穂乃果は、映像作品での在り方において、圧倒的にアイドルなのだ。バーチャルでありながら、フィクションだからこそ在り得るアイドル。こんな存在を実現させたこの作品は、間違いなくプロフェッショナルの仕事である。

 この作品は2期の放送が決定している。これほど緻密に構成され、必然的に終わった美しい作品の後にどんなものが来るのか全然わからないが、1期13話を完成された全体として鑑賞した筆者にとって、それだけは避けてほしいと思いつつ、逆にそれしか期待していないのは、2期の第1話が第14話として平然と始まり、この文章で特権的な「結果」の地位を与えた第13話(あるいは1期全体)を、「前回のラブライブ!」=「過程」に再び貶してしまうことだ。ハードルは上がっている。

(←)高坂穂乃果という永久機関「ラブライブ!」第13話

聖域のアマチュアイズム「ラブライブ!」第9話

 ことり回……ではあるが、絵里からの無茶ぶりに苦慮し、学業に支障をきたすレベルのことりに対して、メンバーと働きながら考えることを提案したのは穂乃果であり、厨房で「この街が好き」発言を引き出したのも穂乃果であれば、それをそのまま歌詞にするように言ったのも穂乃果である。しかしここで注目したいのはことりの苦悩でも穂乃果の主人公性でもない。第9話は、「アキバ」という街(注意:「秋葉原」とは言明されない)を舞台に持ち出した、作中で最も「現実」に接近した回であり、そのアキバ=現実との接点を読み替えることで、μ's=スクールアイドルの在り方を決定づけている。見ていきたいのは、彼女たちの「変身」である。

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2度の変身。にこの変装と、ことりの衣装。

 第9話でメンバーは2度「変身」する。Aパートでにこが「アイドルに生きる者の道」と言った暑苦しい変装と、Bパートの路上ライブでことりの歌詞に合わせたメイド服の衣装である。Aパートは冒頭でアイドルランキングが映され、μ'sの現在順位が50位であることが示される(実に第2話以来のランキング表示。μ'sは999位から一気に949位も上昇している。この唐突感!)。ラブライブに出場できる上位20組に入るためには「何か思い切った手が必要」だが、にこは「その前にしなきゃいけないことがある」と言い出す。次のシーンで、メンバーは繁華街で却って目立つ変装をすることになる。

 にこの変装には何の意味があるのか。本人曰く「有名人なら有名人らしく、街で紛れる格好ってもんがあるの」。あるいは「たとえプライベートであっても、常に人に見られていることを意識する。トップアイドルを目指すのなら当たり前よ!」(これに対して穂乃果の反応は「……ハァ」。穂乃果のリアクションが薄いのが良い)。ここで映像は「スクールアイドルショップ」なる怪しげな店に展開し、そこでμ'sが自分たちのグッズを発見して驚く流れになる。本人たちの承諾なしで勝手にグッズが売られているわけで、どう考えてもヤバ気な事態なのだが、海未は「こうやって注目されているのがわかると、勇気づけられますよね」などと宣い、にこはもちろん、花陽と凛も泣くほど喜ぶ。

 だがメンバーが自分のグッズを発見して喜ぶこと自体は決しておかしな話ではない。アイドル稼業とは自らの身体を市場に投げ出して「性」と「若さ」を売る商売である(少々乱暴だがここでは仮にそうしておく)。アイドルは他者からの注目を集めるべき商品であり、それこそが喜びに値する評価なのだ。そして情報化した社会=アキバにおいては、消費者=オタクの視線は彼女たちのプライベートまで消費し尽くす……といったよくあるアイドル論的な話は、現実のアイドルの在り方そのものであり、にこの変装の根拠にもなっていたところ。にこは「市場化の視線から逃れるため、プライベートでは街に紛れなければならない」と言っているわけだ(とか言いながら、自分の写真という商品に感涙するにこの矛盾こそ、「アイドルに生きる者の道」なのかもしれない)。

 ここまでの話の流れはアイドルランキングの表示から一貫している。画面への登場が慎重に避けられていたアイドルランキングが唐突に現れ、モブの応援コメントまで入ったのは、メンバー集め=内輪で盛り上がっていたμ'sを、他者の視線による競争の世界=市場に引き戻すためだ。アイドル市場においては、見せるつもりのなかったプライベートまで容赦なく商品化され(彼女たちはμ'sグッズの存在を知らなかった)、過酷な競争と選別にかけられる。ここでアキバという街は、市場化の欲望=視線が渦巻く魔界として描かれている。言うまでもなくこれは現実の秋葉原とアイドル環境(さらに言えば「ラブライブ!」のコンテンツ展開)の戯画として見ることができるし、これこそが本当のアイドルというものだ。

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Aパートのアキバは視線にあふれた街だ。サングラスには彼女たちに向けられた視線が映り込んでいる。

 にこの変装は、市場の視線を前提とし、そこから逃れて街に紛れるための格好だった。これに対してことりの衣装は、他者の視線を前提としたものではない。もちろんメイド喫茶という商店の一要素としての格好ではあるが(だからプロ志向のにこはあくまでも接客を要求する)、市場に投げ出され、不特定多数の視線に晒されることを想定しているわけではない。ショップで売られている生写真を回収しにきたところをメンバーに発見され、必死に逃走する姿が象徴的だ。ではことりは何のためにメイド服を着ているのか?

 メイド喫茶でバイトしていることがバレたことりは、「なぜです?」と問う海未に対して、「自分を変えたいなって…」と語りだす。また、Bパートで歌詞作りのヒントを得るためにメンバーと共に働いた際には、穂乃果に「やっぱりここにいると、ちょっと違うね。別人みたい」と言われ、より直接的な言葉でこう返す:「この服を着ていると、できるっていうか、この街に来ると、不思議と勇気がもらえるの。もし、思い切って自分を変えようとしても、この街なら、きっと受け入れてくれる気がする。そんな気持ちにさせてくれるんだ。だから好き!」。これが歌詞になる。

 この言葉は、ことりの衣装を「自分を変えるための恰好」として規定するだけでなく、アキバという街についての大がかりな読み替えを図るものである。アキバについては、Aパートの最後に絵里も言及している:「次々新しいものを取り入れて、毎日めまぐるしく変わっていく。この街は、どんなものでも受け入れてくれる。一番ふさわしい場所なのかもなって。私たちのステージに」。二人の言葉は一致している。二人にとって、アキバとは「どんなものでも受け入れてくれる街」だ。そこでは「思い切って自分を変えようと」することもできる。メイド服はそのための格好であり、にこのように変装して「街に紛れる」必要はない。無限の包容力と寛容さを備えた桃源郷。素晴らしきワンダーゾーン。

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穂乃果の視線はことりの写真に引き寄せられる。このカットは2度挿入され、印象に残る。ことりがアキバの読み替えを語るシーンでは、彼女はコーヒーに反射した自分自身を見ている。意識されているのは他者の視線ではない。

 Aパートで描かれたアキバ=にこのアキバは、市場化の欲望=視線が渦巻く魔界だった(だからランキング1位のA-RISEの「お膝元」になる)。他者の視線を避けるために、変装するのが「当たり前」の街である。それに対してBパートのアキバ=ことりのアキバは、無限の包容力と寛容さを備えたワンダーゾーンなのである。これは選別と淘汰を呼び寄せる市場的なアキバ観とは明確な対照をなす。明らかに、よりアイドルにふさわしく、より現実の秋葉原に近いのは「にこのアキバ」のほうだ。だが絵里は「どんなものでも受け入れてくれるこの街」こそ「私たちのステージにふさわしい」と言い、そしてμ'sは全員がメイド服(第9話においては、他者の視線ではなく、自分自身のための衣装)を着て「Wonder zone」を歌う。μ'sはメイド服を衣装に路上ライブを決行することで、アキバという街を読み替え、自分たちのいる場所=「μ'sのアキバ」として「ことりのアキバ」を選択したのである(これは後出しだが、ここで「ことりのアキバ」を選んだ以上、後の展開がどんどん内輪的になるのも、「にこのアキバ」的な競争であるラブライブ出場をめぐって問題が持ち上がるのも、ことりの回復がμ'sの復活に繋がるのも、必然的なことだ)。

 なんだか暢気なアキバ推しにも思えるが、先に書いたアイドルの在り方から考えると、これは恐るべき事態である。これは市場からの撤退宣言に近い。というか、自分たちの在る場所を「市場」と見なしていないのだ。ランキングの順位を上げる狙いから出発しながら、他者の視線からいかに評価されるか、つまり競争の「結果」は、彼女たちにとって二の次なのである。「プロのアイドルならすぐに失格」とはまさにことりの言葉だが、客の目を気にせずに、何でも受け入れてくれることを前提にしてパフォーマンスするなんぞ、プロであれば存在意義が問われる。ここでスクールアイドルという概念が活きてくる。μ'sはプロフェッショナルにあらず、スクールアイドルでありアマチュアなのだ。ではスクールアイドルとは何をする集団なのか。μ'sというアマチュアは何を以ってアイドルたりうるのか。彼女たちが選んだアイドル像は、無限の寛容さをもった聖域で、「自分たちがいかに思い切るか、いかに変わっていくか」、すなわち「活動」そのものを見せることだったのである。他者の視線を意識せず、「結果」ではなく「過程」を魅せるμ'sのアイドル活動(参考:第7話など)は、こうして正当化される。では「無限の寛容さをもった聖域」とは一体どこなのか? 作中ではアキバという街の理想像と被せられていたが、ここまで来れば、それが「ラブライブ!」という作品、つまりフィクションそのものであると言ってみるところまで、それほど障壁は高くないように思える。

(参考)『ネ』 ラブライブがたどり着いた商業主義の理想
スクールアイドルとアマチュアイズムについて。リンク先では「ラブライブ!」のコンテンツ展開とのパラレルな関係を見ているが、ここでは話を作品内部に留めた。

(→)穂乃果の異常行動を数える「ラブライブ!」第10話
(←)早い遅さの作り方「ラブライブ!」第8話(1)