2017年06月

読書感想文「ごんぎつね」

新美南吉 ごん狐 - 青空文庫

 まず最初が良い。一段落めで、語り手が伝聞であることを明かす。二段落めは、背景説明。三段落めになると、「私」が消え「ごん」が現れる。四段落めで、物語が始まる。五段落め、「ごんは、ほっとして穴からはい出ました」。語りがごんに寄り添う。ズームインしてピントを合わせる、流れるようなカメラワーク。

 それに対して終わりの引きは急だ。最後の場面、ここまでごんに寄り添っていた語りが急に転回し、「兵十は、ふと顔をあげました」。ここから兵十の決断は早い。狐を認めると、「ようし。」の一言ですぐに発砲する。最初のなめらかさと、最後の唐突さ。いきなり撃たれたという印象がごんへの同情を誘う。かわいそうなごん! 償いに来たことが伝えられさえすれば! 兵十さん厳しすぎ!

 しかし兵十が撃ったのは充分に合理的な行動だった。それはもちろんごんが撃たれて当然のことをしたからではない(そういう感想は作品に書かれていることを読んでいない。ごんは撃たれて当然といえるようなことは何もしていない)。兵十の母が死に際にウナギを求めたのかどうかは定かではない。それはごんの想像である。ウナギリリースと兵十母の死は関係があるとはいえず、ごんが感じる罪の意識は狐の勝手な妄想である。ごんは加害妄想傾向の強い狐なのだ。

 ごんがウナギをリリースしたのは事実だが、これも撃たれて当然の罪などではまったくない。この世界における魚泥棒への報復基準はイワシの場面で既に明らかにされている。兵十自身が体験したように、それはほっぺたに「かすり傷」がつく程度ですむ話なのである。兵十がごんを撃ったのは、母の仇だからではなく、窃盗犯だからでもない。たんにごんがキツネだったからだ(家にキツネが入ったら、特に恨みなどなくとも撃つ可能性はある。「こないだうなぎをぬすみやがった」という記憶は後押しにすぎない)。ごんが撃たれたのはひとえにキツネだったからで、その存在自体が原因であって行為のせいではない。だからこそ兵十の発砲はいたましく、そして正当である。彼は悪行に報いたのではない、有害鳥獣を駆除したのだ。

 いや、ごんは本当にキツネなのか?

 第一場面にはこうある。「その中山から、少しはなれた山の中に、『ごん狐』という狐がいました」。「ごん狐」という「狐」がいたとある。確かにそう書かれている。ところが、「狐」という日本語は、動物の「キツネ」を指すとは限らないのである。辞書!

きつね【狐】
1 イヌ科の哺乳類。体長45~90センチ、尾長30~55センチ。……
2 人をだます、ずるがしこい
(『デジタル大辞泉』)

 このことを念頭に置くとこの小説はたいへん面白く読める。先の続き。「ごんは、一人ぼっちの小狐で、しだの一ぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました」。村八分にされ、見捨てられた孤児が、森の中で生きていた。「そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出てきて、いたずらばかりしました。はたけへ入って芋をほりちらしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手につるしてあるとんがらしをむしりとって、いったり、いろんなことをしました」。食べるために村に出てきて畑を荒らす。「小狐」という言い方がやや苦しいが、やっていることは「人」であっても無理はないし、その行いから「狐」と呼んでも差し支えあるまい。放火とはいかにも人間的なふるまいではないか。

 ここではごんが人であったと主張したいのではない。ごんが人であったかもしれない、と考えられるところが、この作品を面白く読むことにつながったところだと言いたいのである。ごんが獣とも人ともいえる=どちらともつかない存在であるという傍証はある。この作品には短い中に魚に関する場面が二つ出てくる。例のウナギリリースの場面と、イワシスチールの場面である。この二つを比べる。まずウナギリリース。「ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきり網のかかっているところより下手の川の中を目がけて、ぽんぽんなげこみました」。ここまでは人でもありうる。次からが面白い。

一ばんしまいに、太いうなぎをつかみにかかりましたが、何しろぬるぬるとすべりぬけるので、手ではつかめません。ごんはじれったくなって、頭をびくの中につッこんで、うなぎの頭を口にくわえました。……ごんは、ほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっとはずして穴のそとの、草の葉の上にのせておきました。

 ウナギを咥えてその頭を噛み砕く! これは人の所業ではない。明らかに獣である。この「うなぎの頭をかみくだき、」という描写は作中随一の生々しさで印象に残り、だから次のイワシスチールとの差を際立たせる。

ごんはそのすきまに、かごの中から、五、六ぴきのいわしをつかみ出して、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の裏口から、家の中へいわしを投げこんで、穴へ向むかってかけもどりました。

 籠の中からイワシを掴み出して走っていき、家の中に投げ込む。繰り返すが、手にイワシを持って走っている。これはどう考えても直立二足歩行であり、人の仕業だ。〈ウナギ〉と〈イワシ〉の二つの魚場面で、ごんの行為が〈獣〉の所業から〈人〉の仕業に変わっている。この二つの場面の間には、兵十母の葬式がある。ごんは兵十母の葬列を墓地の地蔵の影に隠れて待った。地蔵とはもちろん人型の像である。その人型の影に入ることで(この後ごんは兵十の「影法師」にも入る)、そして「ちょッ、あんないたずらをしなけりゃよかった」といかにも「人間的」な反省をすることで、両義的な狐は〈人〉度を上げている。

 最後の場面で、兵十はごんを撃った。先に見たように、それは相手がキツネだったからだ。そうでなければあの決断の速さはありえない。しかし兵十にとってはキツネであった彼は、読者にとっては〈獣〉と〈人〉が重なった両義的な狐である。しかもこの狐には、作中を通して〈人〉度を上げる操作がなされている。そういう存在を兵十は殺していいものと判断し、撃った。こういうふうに考えてみると、この場面は、「殺していいと思って撃った相手が、よく考えてみると自身と同じ人間だったかもしれない」という悔悟を伴う気づきを、テキストの鑑賞を通して体験しうる場面だと解釈できるのである。兵十とは人類の罪を背負って十字に架かるツワモノなのだ。

 ここに至って私は深く感動した。


文章中の引用は以下から。引用中の強調は筆者による。
新美南吉 ごん狐 - 青空文庫