「ラブライブ!」第1話:高坂穂乃果の躁鬱分解

 これ、衝撃を受けた人は多かったようで、既にいろいろ書かれてはいるが、いま一度、「ラブライブ!」第1話はすばらしかったとメモしておこう。キャラ紹介・背景説明・今後の展開への引き等々といった第1話的要素を最大限に詰め込みながらも、映像を総集編に貶めることなく、高坂穂乃果というキャラクターを主人公として撮りきった京極監督の演出……見事!



 映像が「お話」を説明する道具に成り下がると、それは「総集編」になる。そういう映像はクソである。大きな作品によくある、全体を2時間くらいにまとめちゃいました的な、映画未満DVDのつまらなさを思い浮かべればよい。映像を構成する原理を「お話」しか持てなかった不幸な作品は、最初から最後まで総集編的=物語説明的な時間を繰り返し続けることになる。

 だが「ラブライブ!」第1話はそうではないのだ。この映像のテンションは明らかにおかしい。1カット目からいきなり歌い出し、学校は廃校になり、主人公は倒れ、なんだかにぎやかなOPが流れ、しかしそれは夢で、かと思ったらやっぱり本当なのだ。書いているだけでわけがわからなくなってくるが、この数分間ですでに示されているのは、主人公・高坂穂乃果が、異様にリアクションの大きい(なんせ気絶したのだ)、テンション上下の激しすぎるキャラクターだということである。

 では彼女は25分間でどれだけネガ・ポジを行き来したのか? 全ては映像なのだから見ればわかる。高坂穂乃果のネガ・ポジ展開はこうだ。

O 開始曲
X 廃校を知る→倒れる
O 廃校が夢だと思う→スキップ
X 廃校が現実だと知る→叫ぶ
O 自分には関係ない問題だと知る→パン食べる
X 後輩にとっては重大な問題だと気づく→会長に尋ねる
O 入学希望者が集まればよいと気づく→学校のアピールポイントを探す
X アピールポイントがないことに気づく→机に崩れる
O 家に移動→あんこ食う、妹とバトル
X どうしようもないと言われる→電話
? 母のアルバムを見る→(1)
O 人気校に移動→アイドルを目撃
X アイドルを目撃→パンフ落とす、よろめく
O アイドルをやればいいと気づく→説得する
X アイドルはなしと言われる→屋上でたそがれる
O アイドル候補を見つける→歌を聞きにいく
X スカウトするが断られる→(2)
O 3人でやることに→会長に書類申請に行く
X 部活が認められない、どうすればいいの?→(3)
O 終了曲


この転換の激しさはただの痛い子を超えている。大げさな劇伴も手伝って、このキャラクターの動きを見ているだけでも楽しくなってくるが、ここでポイントは、

・出来事に対する反応としての躁鬱サイクルが見えてくること
・高坂穂乃果は必ず何らかの動作を返すキャラクターであること


この2点があればこそ、「ラブライブ!」第1話は、その情報密度にもかかわらず、総集編にはならなかった。言い換えればこうだ。

・「お話」ではなく、「高坂穂乃果の反応」が、映像の駆動原理になっている
・この映像は、「出来事」ではなく、「高坂穂乃果の動き」を追っている


高坂穂乃果の辞書にスルーの文字はない。動きでカメラを振り回す特権的な人物、これぞ主人公。「出来事」に対する「反応」をちゃんと描くことで、映像は「お話」ではなく「動き」を映しだすものに変化し、総集編化することを免れる。そして、このように構築された映像だからこそ、高坂穂乃果の反応が描かれていないようにみえる場面が、逆説的に意味を持ってくるのである。どういうことか。具体的に見てみよう。

(1)家で母親のアルバムを見る場面
 大仰な音楽とアルバムというアイテムが、学校への思いを掻き立てる……かのようなシーンだが、アルバムを見た高坂はなんの反応も見せない。間違っても「お母さんの思い出の学校を廃校にはさせない!」みたいな決意を口にはしない。ではこのアルバム=母親への返答はどこへいったのか? ちょっと前の妹とのやり取りがヒントになる。妹に人気校を受験すると告げられた高坂は、人気校のパンフに目を通してから、自分の学校に来ないことを抗議し、妹に「時間差すぎだよ!」と突っ込まれる。この何気ないやり取りが示しているのは、高坂穂乃果が、時間差ではあっても、出来事に対して必ず何らかの反応を返すキャラクターである、ということだ。これがアルバムにもあてはまる。

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 アルバム=母親への反応は、時間差で来る。この返答は、第1話全体、あるいは作品全体に先延ばされているのだ。高坂の注意は、写真の内容=母親の思い出ではなく、「アルバムを懐かしむ」という、母親の行為そのものに向けられている。つまり学校の存続云々ではなく、ちゃんと部活動をして、写真に写され、振り返り懐かしむことができるような、「輝かしい高校生活」(最初のセリフ!しかしアニメ版では彼女がこれまでそのような学園生活を送っていた形跡はない)を全うすること。これが高坂の回答なのだ。この回答が示されるのは、1話の最後のセリフ「やるったらやる!」であり、さらには作品全体を通して、ということになるだろう。アルバムに対する高坂の反応を描かないことで(=時間差で描くことで)、「輝かしい高校生活」を送るという、作品全体を貫く原理を浮かび上がらせたのだ。

(2)スカウトを断られたあと
 ここからカメラは主人公から離れ、脇役二人を追うことになる。いい話なんだかよくわからない回想を挟みつつ、アイドルをやるか決断を迫られるのだが、しかしこれ、結論はわかりきっている。やるに決まっているのだ。ここでショボイ作品なら、例えば回想でその気になった二人が、落ち込んでいる高坂を説得して決断する、というような展開になるのだろう。それが総集編的な、お話を説明するための映像だ。全ては逆である。高坂が再び映し出されたとき、彼女はすでに踊っている。回想なんかしている間に、彼女はもう動き出している。脇役ふたりはその姿を見て決断を下す。

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 つまりこの場面では、出来事とリアクションが反転していることになる。これまで高坂は、なにか出来事をうけて、カメラが映すべきリアクションを見せる存在だった。しかしここでは、高坂の行動が「出来事」になり、脇役が手を差し伸べる=アイドルをやる決断をすることが「行動」になっている。視点が彼女から離れていたことで、彼女の「行動」が「出来事」にスライドし、アイドル部のお話をスタートさせるという展開が、物語説明的な要因ではなく、彼女の動きから導かれている。彼女はアイドルになるから踊っているのではない。高坂穂乃果が踊るからこそアイドル活動がスタートする。

(3)最後、生徒会長にアイドル部の申請が却下されたところ
 急にミュージカル仕立てになるので流されそうになるが、注意してみると、ここで高坂は会長の決定に対して何も反応していない。彼女は押し黙ったまま、口元と後ろ姿しか映されない。「どうすればいいの?」と問いかけているのは、高坂以外の脇役たちである。どうすればいいの? 繰り返すように、お話的にはアイドルをやればいいに決まっているのである。だが高坂がそんなセリフを吐かないこともわかりきっている。先に自ら踊ることで展開を導いたように、ここでも彼女は自らの行動をもって作品を駆動する。彼女は振り向かず、カメラのほうが回りこむのが、最後のアシストだ。カメラは彼女の動きを捉えるために回される。どうすればいいの? 歌えばいいのだ。

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 だから「急に歌うよ」とかいってバカにしている場合ではないのである。それは二重に間違っている。これまで見てきたように、彼女は出来事に対して動きを返すキャラクターであり、彼女の動きを描くことが、映像が展開する理由だった。さて第1話の締めたるこの場面では、会長によってアイドル部設立が却下されている。アイドル部設立の却下が意味するのは作品の停止だ。脇役たちはこの作品停止という状況に「どうすればいいの?」と問いかけることしかできない。だが主人公は違う。主人公・高坂穂乃果は、自らの動きをもって作品を再起動する。条件は揃った。彼女は歌い出すことができるし、歌い出さなければならないのだ。確かに、このとき彼女が歌うことには、物語上の必要性は全くない。この作品のあらすじを説明するとき、ここで歌ったことは多くの場合触れられないだろう。だが彼女はいま歌うために歌う。カメラはその瞬間を捉えるために回りこむ。その動きが、映像が継続する根拠となる。フィクション上のただの画が、存在感をもって現れる。運動する、その瞬間の、その動き。踊り歌うことで作品そのものを動かしたとき、高坂穂乃果というキャラクターは、主人公=アイドルとして画面上に現れるのだ。

(→)なめらかな断絶を踊る「ラブライブ!」第1話
(←)「ラブライブ!」第1話(intro)
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