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高坂穂乃果という永久機関「ラブライブ!」第13話

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真姫が見つめるドアの向こうに、“彼女”の姿はない。海未が弓道に集中し、絵里と希が生徒会の仕事をこなし、にこ・凛・花陽がアイドル活動の続行に動き出すなかで、真姫はピアノの前に座りながらも、音楽を始めることはない。ドアは開かれず、教室に飛び込んでくる影もない。穂乃果の不在を強く感じるカットだ。

 最終回。まず語られるのは、(1)廃校阻止という物語の失効。絵里「学校が存続することになって、私たちは何を目標にこれからがんばるのか、考えなきゃいけない時がきてたのよ」。あるいは(2)穂乃果のアイドル活動への執着の無さ。ゲーセンで踊りながら想起するのは、尽く仲間との練習風景であり、アイドルとして歌い踊っているライブやPVの映像ではない。「穂乃果みたいないい加減な『好き』とは違うの!」に対して、最終的に「にこちゃんの言う通りだよ……」と微妙な反応しか返せない彼女の姿。そして(3)「ともだち」という行動原理。講堂で、穂乃果は海未に向かってこう語る。「私ね、ここでファーストライブやって、ことりちゃんと海未ちゃんと歌ったときに思った。もっと歌いたいって。スクールアイドルやっていたいって」。前回、ことりの留学が判明し、完全に鬱モードに入った穂乃果に対して、にこは「そんなことでやる気をなくすの!?」と訴えた。だが「そんなこと」こそ、「ともだち」との活動こそ、穂乃果にとっての最優先事項であり、彼女の行動原理だった……。

 ……というようなことは、ずっとこのブログで指摘してきたことであり、つまり既に映像で語られていたことなので、最終回にわざわざ種明かしするほどのことでもない。むしろ、これまで魅力的な映像に映しとってきたことが、直接的な言葉で語られていることには、なんだか残念な気分にさせられるが、こんなことまで語ったからこそ際立つこともある。モブ含む登場人物たちは、誰も穂乃果に翻意を促してはいないのだ。ここで穂乃果の復活を導くのは、作品中盤の山場=7話・8話を経験した、絵里と海未の二人である。

・絢瀬絵里:差し伸べ(られ)た手

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 まず、絵里の訪問。絵里は自ら高坂邸に乗り込み、穂乃果に手を差し伸べる。一見、8話との安易な対照にも見えるが、ここで絵里は穂乃果に「一緒にアイドルをやろう」と誘いかけているわけではないし、穂乃果はその手を握り返すこともない(握り返したかもしれないが、その瞬間は映されていない)。この事実こそ、8話と鮮やかな対照をなすのだ。8話で指摘したように、絵里の「決断」は、ただ差し伸べられた手を取る動作としてしか描かれ得なかった。本当に「変心」し「決断」したのは、穂乃果のほうだったからである。そして最終回のこの場面では、絵里は穂乃果に翻意を促すのではなく、穂乃果の気まぐれに巻き込まれた経験を、その当人に打ち明ける。

 絵里はその経験をこう解説する。「私は穂乃果が羨ましい。素直に自分が思っている気持ちを、そのまま行動に起こせる姿が、すごいなって」。ここで穂乃果が「そんなこと……」と口ごもるのは、その時点で「素直に自分が思っている気持ちを、そのまま行動に起こせ」ていないと気づいているからだ。絵里が穂乃果に見たものは、「変わることを恐れないで、突き進む勇気」だった。それこそ、穂乃果が衝動的に・突発的に・気まぐれに行動するための燃料であり、彼女の魅力の源泉なのだ。ここでその勇気が発揮されれば、彼女はまた気まぐれに変心し、アイドル活動を再開すべく動き始めることだろう。絵里は穂乃果の行動に「救われた」人間として、手を差し伸べ返すことで、穂乃果に行動を起こさせるのではなく、穂乃果行動を起こす燃料を再注入したのだ。だからここで穂乃果はその手を握り返さない。「復活」は、あくまで能動的な動きとして描かれなければならない。

・園田海未:急に歌うよ

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「変わることを恐れないで、突き進む勇気」を自覚した穂乃果は、復活に向かって動き出す。一度やめると言ったことでも、「変わることを恐れないで」、もう一回始めてしまえばよいのだ。次に穂乃果が映されたとき、彼女はすでに決意を固め、講堂に海未を呼び出しているが、海未との会話は、上でも書いたように、これまで映像で語られてきたことの繰り返しにすぎない。穂乃果が周囲をワガママに巻き込むことで作品を駆動してきた、なんてことはわかりきっているわけで、海未が失笑を漏らすのも無理はない。しかも彼女が選択した言葉は「ごめんなさい」だった。心境やら反省やらを長々と喋り、謝罪の言葉を口にする穂乃果など、失笑モノにも程がある。穂乃果のワガママは、言葉ではなく、行動で示されるべきものだからだ。例えば、1話の最後に、踊り歌い出すことで海未とことりを巻き込んだように。

 それがわかっているからこそ、海未は穂乃果の立つステージに上がり、1話で穂乃果が歌った曲を、今度は自分から歌いはじめるのだ。このシーンは感慨深い。1話では、生徒会にアイドル活動を却下され、作品が停止しかけたところで、彼女は「どうすればいいの?」と問いかけることしかできなかった。その問いかけに対し、穂乃果は突然歌い出すことで、作品を駆動し、μ'sのメンバーを「すごいところ」に連れて行ったわけだ。しかし最終回では、海未は自ら穂乃果と同じ舞台に上がり、穂乃果を再起動するために自分から歌い始める。穂乃果の歌に無理矢理引っ張られていた海未の姿はもうない。穂乃果との時間を糧に、自ら行動することで、「行動する穂乃果」を再起動する。絵里と海未は、穂乃果のように動き、穂乃果を動かしたのだ。

 海未の歌につられて歌い出した穂乃果は、ことりを引き止めるために空港に向かう。ここからエンディングまでの流れは早い。ことりはこれまでイエスマンの役割を演じてきたが、それは無条件に穂乃果をフォローすることであり、裏を返せば常に穂乃果の影響圏外だったことを意味した。イエスマンは実はラスボスだったのだ。南ことりという人物を、自らの気まぐれな行動に「巻き込んで」翻意させたとき、穂乃果は行動によって作品を動かす主人公として、μ'sのメンバーたちとともに、再び舞台に立つのである。

・高坂穂乃果:永久活動理論

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 復活した穂乃果は、満員の客席に向かって、次のように宣言する。「私たちのファーストライブは、この講堂でした。その時、私は思ったんです。いつか、ここを満員にしてみせるって。その夢が今日、叶いました」(「いま・ここにいる・この思いを伝えること」については総論参照)。ここで語られた彼女の「夢」が、「ラブライブ出場」や「廃校阻止」はもちろん、「アイドル活動」や「ともだちとの活動」ですらなく「講堂を満員にすること」だったというのは、いささか肩すかしに思えなくもない。確かに3話でそう言っていたし、作品の結末のオプションの一つではあったが、穂乃果がこれまで「講堂を満員にすること」を目標に活動していた、というのは、やはり釈然としない。この作品のあらすじを「穂乃果が講堂を満員にする物語」といったところで、誰も納得はしないだろう。この発言は言葉通りに受け取る必要はない。

 どんなことでも「目指すべき夢」として語れること、物語の終着点のオプションを複数持つこと、次から次へと「目標」が出てくること自体が、彼女の最高の強みなのだ。物語の要請による「廃校阻止」や、数値的な結果としての「ラブライブ出場」と同列に、「講堂を満員にする」という、わりとどうでもいい目標を語れてしまうこと。この思考回路があってこそ、「その夢が今日、叶いました。だから、私たちはまた駈け出します、新しい夢に向かって!」というロジックが可能になる。ここで「だから」と言えてしまうこと。穂乃果理論によれば、「夢が叶うこと」は、「新しい夢に向かうこと」の理由なのだ。夢が叶ったら、また新しい夢に向かっていけばいい。一度辞めてしまったとしても、もう一度始めればいい。12話では、鬱モードの穂乃果の姿に、「結果」が「過程」を終了させてしまうことへの恐れを読み取ったが、最終回では、彼女は「結果」を「終点」ではなく、新たな「過程」の「起点」とする論理を手に入れている。何かに向かっていく輝かしい「過程」は、永遠に続くのだ。この理論を手に入れることで、高坂穂乃果は完全に復活した。いわば、活動し続ける“永久機関”として。

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 このブログでは、「ラブライブ!」という作品に、第1話から一貫して、行動し作品を駆動する主人公と、結果を求める物語のあいだの緊張関係を見てきた。その関係にも決着がついたように思える。前回、「ラブライブ出場断念」と「廃校阻止の実現」というかたちで物語が無効化した後、穂乃果は「自分が何もしなければ、こんなことにはならなかった」と語り、それに対して絵里は「そうやって全部自分のせいにするのは傲慢よ」「何も始まらないし、誰もいい思いもしない」と返した。これは映像の駆動原理をめぐるスリリングなやりとりだ。確かに、穂乃果が何もしなければ=1話で突然歌い出さなければ、そもそもμ'sのアイドル活動は何も始まらず、「こんなこと」にはなりえなかった。だが十数話にわたる過程を経たいま、動きを見せ映像を駆動する主人公性=アイドル性は、μ'sの9人にこそ備わってきていたのだ(だから絵里は「傲慢」と言い、ラストはμ'sミュージックスタート」なのだ)。何より、作品を通して能動性を見せつけてきた穂乃果は、「9人のμ'sの終点」を拒否することで動けなくなり、「最低化」したのだった。いずれにせよ、映像に物語が占める場はもはやない。

 そして最終回。穂乃果は終わりを始まりに読み替え、行動し続ける論理を手に入れた。もう物語は必要ない。そして皮肉なことに、物語がないので、作品も終わる。「過程」は「原因=起点」と「結果=終点」の間にしか発生しない。語られない「新しい夢」に向かって駈け出した穂乃果たちは、作品の時間に場を持てないのだ。講堂のシーンで、穂乃果は次のように言う。「やめるって言ったけど、気持ちは変わらなかった。学校のためとか、ラブライブのためとかじゃなく、私好きなの、歌うのが。それだけは譲れない」。ここで作中イベントの「ラブライブ」が、『ラブライブ!』という作品名に重なる。穂乃果が歌うのは、『ラブライブ!』のためではない。穂乃果のアイドル活動は、『ラブライブ!』という作品、すなわち全13話の物語における「過程」の外に出て行ったのだ。彼女の活動は、作品の外で続いている。それがコンテンツ展開的には望ましい「結果」であるというのが、なんとも憎いところなのだが。

「ラブライブ!」は、前日談という、物語の要請が強い体裁をとりながら、しかし自ら行動することで作品を駆動する主人公の姿を、歌と踊り=アイドル活動に託すことで、魅力的な映像として描き出すことに成功した。特殊なコンテンツ形態ゆえ、またアイドル物という見せかけゆえ、外部を持ち出してくる語りが多そうな気がするが、このブログでは、「ラブライブ!」の魅力は映像それ自体にある、と断言したい。何より高坂穂乃果というすばらしき主人公が、各話これほど長い文章を書かせたのだと思う。傑作と言うべき作品である。

(→)「ラブライブ!」総論:高坂穂乃果はなぜアイドルなのか
(←)集大成の最低化「ラブライブ!」第12話
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