聖域のアマチュアイズム「ラブライブ!」第9話

 ことり回……ではあるが、絵里からの無茶ぶりに苦慮し、学業に支障をきたすレベルのことりに対して、メンバーと働きながら考えることを提案したのは穂乃果であり、厨房で「この街が好き」発言を引き出したのも穂乃果であれば、それをそのまま歌詞にするように言ったのも穂乃果である。しかしここで注目したいのはことりの苦悩でも穂乃果の主人公性でもない。第9話は、「アキバ」という街(注意:「秋葉原」とは言明されない)を舞台に持ち出した、作中で最も「現実」に接近した回であり、そのアキバ=現実との接点を読み替えることで、μ's=スクールアイドルの在り方を決定づけている。見ていきたいのは、彼女たちの「変身」である。

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2度の変身。にこの変装と、ことりの衣装。

 第9話でメンバーは2度「変身」する。Aパートでにこが「アイドルに生きる者の道」と言った暑苦しい変装と、Bパートの路上ライブでことりの歌詞に合わせたメイド服の衣装である。Aパートは冒頭でアイドルランキングが映され、μ'sの現在順位が50位であることが示される(実に第2話以来のランキング表示。μ'sは999位から一気に949位も上昇している。この唐突感!)。ラブライブに出場できる上位20組に入るためには「何か思い切った手が必要」だが、にこは「その前にしなきゃいけないことがある」と言い出す。次のシーンで、メンバーは繁華街で却って目立つ変装をすることになる。

 にこの変装には何の意味があるのか。本人曰く「有名人なら有名人らしく、街で紛れる格好ってもんがあるの」。あるいは「たとえプライベートであっても、常に人に見られていることを意識する。トップアイドルを目指すのなら当たり前よ!」(これに対して穂乃果の反応は「……ハァ」。穂乃果のリアクションが薄いのが良い)。ここで映像は「スクールアイドルショップ」なる怪しげな店に展開し、そこでμ'sが自分たちのグッズを発見して驚く流れになる。本人たちの承諾なしで勝手にグッズが売られているわけで、どう考えてもヤバ気な事態なのだが、海未は「こうやって注目されているのがわかると、勇気づけられますよね」などと宣い、にこはもちろん、花陽と凛も泣くほど喜ぶ。

 だがメンバーが自分のグッズを発見して喜ぶこと自体は決しておかしな話ではない。アイドル稼業とは自らの身体を市場に投げ出して「性」と「若さ」を売る商売である(少々乱暴だがここでは仮にそうしておく)。アイドルは他者からの注目を集めるべき商品であり、それこそが喜びに値する評価なのだ。そして情報化した社会=アキバにおいては、消費者=オタクの視線は彼女たちのプライベートまで消費し尽くす……といったよくあるアイドル論的な話は、現実のアイドルの在り方そのものであり、にこの変装の根拠にもなっていたところ。にこは「市場化の視線から逃れるため、プライベートでは街に紛れなければならない」と言っているわけだ(とか言いながら、自分の写真という商品に感涙するにこの矛盾こそ、「アイドルに生きる者の道」なのかもしれない)。

 ここまでの話の流れはアイドルランキングの表示から一貫している。画面への登場が慎重に避けられていたアイドルランキングが唐突に現れ、モブの応援コメントまで入ったのは、メンバー集め=内輪で盛り上がっていたμ'sを、他者の視線による競争の世界=市場に引き戻すためだ。アイドル市場においては、見せるつもりのなかったプライベートまで容赦なく商品化され(彼女たちはμ'sグッズの存在を知らなかった)、過酷な競争と選別にかけられる。ここでアキバという街は、市場化の欲望=視線が渦巻く魔界として描かれている。言うまでもなくこれは現実の秋葉原とアイドル環境(さらに言えば「ラブライブ!」のコンテンツ展開)の戯画として見ることができるし、これこそが本当のアイドルというものだ。

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Aパートのアキバは視線にあふれた街だ。サングラスには彼女たちに向けられた視線が映り込んでいる。

 にこの変装は、市場の視線を前提とし、そこから逃れて街に紛れるための格好だった。これに対してことりの衣装は、他者の視線を前提としたものではない。もちろんメイド喫茶という商店の一要素としての格好ではあるが(だからプロ志向のにこはあくまでも接客を要求する)、市場に投げ出され、不特定多数の視線に晒されることを想定しているわけではない。ショップで売られている生写真を回収しにきたところをメンバーに発見され、必死に逃走する姿が象徴的だ。ではことりは何のためにメイド服を着ているのか?

 メイド喫茶でバイトしていることがバレたことりは、「なぜです?」と問う海未に対して、「自分を変えたいなって…」と語りだす。また、Bパートで歌詞作りのヒントを得るためにメンバーと共に働いた際には、穂乃果に「やっぱりここにいると、ちょっと違うね。別人みたい」と言われ、より直接的な言葉でこう返す:「この服を着ていると、できるっていうか、この街に来ると、不思議と勇気がもらえるの。もし、思い切って自分を変えようとしても、この街なら、きっと受け入れてくれる気がする。そんな気持ちにさせてくれるんだ。だから好き!」。これが歌詞になる。

 この言葉は、ことりの衣装を「自分を変えるための恰好」として規定するだけでなく、アキバという街についての大がかりな読み替えを図るものである。アキバについては、Aパートの最後に絵里も言及している:「次々新しいものを取り入れて、毎日めまぐるしく変わっていく。この街は、どんなものでも受け入れてくれる。一番ふさわしい場所なのかもなって。私たちのステージに」。二人の言葉は一致している。二人にとって、アキバとは「どんなものでも受け入れてくれる街」だ。そこでは「思い切って自分を変えようと」することもできる。メイド服はそのための格好であり、にこのように変装して「街に紛れる」必要はない。無限の包容力と寛容さを備えた桃源郷。素晴らしきワンダーゾーン。

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穂乃果の視線はことりの写真に引き寄せられる。このカットは2度挿入され、印象に残る。ことりがアキバの読み替えを語るシーンでは、彼女はコーヒーに反射した自分自身を見ている。意識されているのは他者の視線ではない。

 Aパートで描かれたアキバ=にこのアキバは、市場化の欲望=視線が渦巻く魔界だった(だからランキング1位のA-RISEの「お膝元」になる)。他者の視線を避けるために、変装するのが「当たり前」の街である。それに対してBパートのアキバ=ことりのアキバは、無限の包容力と寛容さを備えたワンダーゾーンなのである。これは選別と淘汰を呼び寄せる市場的なアキバ観とは明確な対照をなす。明らかに、よりアイドルにふさわしく、より現実の秋葉原に近いのは「にこのアキバ」のほうだ。だが絵里は「どんなものでも受け入れてくれるこの街」こそ「私たちのステージにふさわしい」と言い、そしてμ'sは全員がメイド服(第9話においては、他者の視線ではなく、自分自身のための衣装)を着て「Wonder zone」を歌う。μ'sはメイド服を衣装に路上ライブを決行することで、アキバという街を読み替え、自分たちのいる場所=「μ'sのアキバ」として「ことりのアキバ」を選択したのである(これは後出しだが、ここで「ことりのアキバ」を選んだ以上、後の展開がどんどん内輪的になるのも、「にこのアキバ」的な競争であるラブライブ出場をめぐって問題が持ち上がるのも、ことりの回復がμ'sの復活に繋がるのも、必然的なことだ)。

 なんだか暢気なアキバ推しにも思えるが、先に書いたアイドルの在り方から考えると、これは恐るべき事態である。これは市場からの撤退宣言に近い。というか、自分たちの在る場所を「市場」と見なしていないのだ。ランキングの順位を上げる狙いから出発しながら、他者の視線からいかに評価されるか、つまり競争の「結果」は、彼女たちにとって二の次なのである。「プロのアイドルならすぐに失格」とはまさにことりの言葉だが、客の目を気にせずに、何でも受け入れてくれることを前提にしてパフォーマンスするなんぞ、プロであれば存在意義が問われる。ここでスクールアイドルという概念が活きてくる。μ'sはプロフェッショナルにあらず、スクールアイドルでありアマチュアなのだ。ではスクールアイドルとは何をする集団なのか。μ'sというアマチュアは何を以ってアイドルたりうるのか。彼女たちが選んだアイドル像は、無限の寛容さをもった聖域で、「自分たちがいかに思い切るか、いかに変わっていくか」、すなわち「活動」そのものを見せることだったのである。他者の視線を意識せず、「結果」ではなく「過程」を魅せるμ'sのアイドル活動(参考:第7話など)は、こうして正当化される。では「無限の寛容さをもった聖域」とは一体どこなのか? 作中ではアキバという街の理想像と被せられていたが、ここまで来れば、それが「ラブライブ!」という作品、つまりフィクションそのものであると言ってみるところまで、それほど障壁は高くないように思える。

(参考)『ネ』 ラブライブがたどり着いた商業主義の理想
スクールアイドルとアマチュアイズムについて。リンク先では「ラブライブ!」のコンテンツ展開とのパラレルな関係を見ているが、ここでは話を作品内部に留めた。

(→)穂乃果の異常行動を数える「ラブライブ!」第10話
(←)早い遅さの作り方「ラブライブ!」第8話(1)
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