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消えたシネスコ演出「(劇場版)まどか☆マギカ」

 シャフト=新房監督は小手先の演出が得意だ。黒板ネタとか字幕挿入とか、まあいろいろあるわけだが、そういう小ネタに混じってきちんと効果を発揮しているのが、画面アスペクト比をいじる演出である。

 初出作品を言い当てることはできないが、ワイドテレビが普及し、作品のアス比が16:9で安定すると、16:9の画面にレターボックスを入れてシネスコサイズにする演出を多用するようになった。「化物語」あたりでは、最終回がずっとシネスコだったりしたので意図がよくわからず、思いつきにすぎないようにも見えたが、「まどマギ」ではアバンと回想に用いることを徹底し、画面に根拠を与える”引用符”として機能させていた。

 例えば、10話の終盤、ほむらがワルプルギス4回戦に挑む場面。異空間からの転移を利用して画面をシネスコサイズにすることで、その場面がすでに描かれた時間=1話冒頭であることを明らかにした。

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10話。魔女を倒し、ワルプルギス戦に向かおうとするほむら。

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次のカット。すでにレターボックスは入っているが、異空間が暗いのでよく見えない。

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明るい通常空間に戻ると、レターボックスが入っていることに気づく。

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で、Magiaが流れ、1話冒頭の時間であることがわかるという仕掛け。お見事。

これはかなり冴えている。この「シネスコ演出」がさらに効果的に機能していたのが、11話のAパート、キュゥべえがまどかに対し「インキュベーターと人類が共に歩んできた歴史」を語る一連のシークエンスである。

 まどかの部屋。杏子とさやかはすでに死亡し、事情を聞く母親に「何も知らない」と嘘をついたまどかは、自室のベッドに倒れ込む。「この光景を残酷と思うなら、君には本質が全く見えていない」。かの「営業のテーマ」をBGMに語りはじめるキュゥべえ。人間と家畜の理想的な共栄関係。むしろ僕らは、ずっと君たちに対して譲歩しているよ。納得できないまどか。BGMが一旦切れる(このタイミングも素晴らしい)。「信じられないのかい?それなら、見せてあげようか!インキュベーターと人類が共に歩んできた歴史を!」。キュゥべえの両目から光が拡散し、まどかはキュゥべえの言う「歴史」を見せつけられる。

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まどかの瞳にキュゥべえが映り込み、両者の視線が合っていることが示される。

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キュゥべえの両目が発光。

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レターボックスが入りながら、カメラが引く。

 ここですよ!この、カメラを引きながらレターボックスを入れ、画面を16:9からシネスコサイズにしていく処理!

 この場面が特異なのは、まず画面サイズの変更が動的に行われたこと。少なくともまどマギではここが唯一の例であり、おそらく他の新房作品でもあまり見られないのではないかと思う。映像作品の画面の大きさを作品内部の論理で変更するというのは、画面サイズがフィルム撮影技術と深く関係していたことを考えると、たぶんシネフィル的な人にとっては絶対に認められない演出であろうが、デジタル制作のテレビアニメにはそんなことは関係ない。このデジタル感がいい。ふたつめに、画面のシネスコサイズ化、レターボックスの挿入、カメラワーク、そしてセリフまでもが複合的に演出効果を発揮した点にある。どういうことか。

 キュゥべえは言う、「それなら、見せてあげようか!」。両目から発光。レターボックス挿入。そして私たちはキュゥべえの用意した映像を「見せられる」。発言、発光、レターボックスの挿入からVTRまで、キュゥべえの能動的な動作が一連のシーンをなすことで、あたかもレターボックスの挿入までもがキュゥべえの意図によるものであり、キュゥべえがその権限を持った存在であるかのようにみえてくるのである。作品画面のアス比を変更する権限を持った、主人公たちとは一線を画す超越的なキャラクター。

 さらに、レターボックスの挿入と同時にカメラをズームアウトさせることが、この効果を増幅する。レターボックスを挿入する=画面を狭くすると、映っている画の範囲が狭くなるのだから、当然カメラが寄ったように見えるはずだ。しかし同時にカメラをズームアウトさせれば、画の範囲はほとんどそのままに、画の大きさだけが小さくなったかのように見える。私たちがそれまで見ていた景色=部屋のベッドにへたりこんでいるまどかが、そのままシネスコサイズの画面に収まる。つまりまどか(と、いままで見てきた世界全部)が、キュゥべえの創りだした映像に取り込まれてしまうわけだ。事実、キュゥべえVTRには、それを見せられているまどかが映り込んでいた。

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まどかがレターボックス=キュゥべえの引用符に取り込まれてしまった。

 こうして、キュゥべえによる語りは、自ら劇中劇映像を創り出し、それをキャラクターの脳に伝送し、さらにそれを見せられているキャラクター自身も取り込んで作品に投影する、語り手キュゥべえの超越性を示す場面に様変わりする。映画を想起させるシネスコサイズの画面を設定し、それに向けて光線=映像を投射する映写機のような位置にいるキュゥべえが「それなら、見せてあげようか!」と言ったとき、その言葉が向けられていたのは、目の前にいるまどかであると同時に、自らが創りだしたスクリーンの向こうにいる私たちでもあったわけだ。

 この場面は、BGMのタイミングや心音効果音やアップを連続させてから引くカット割り等々含めて、初見時から強く印象に残っていたところである。私見ではまどマギの最高潮と言うべき場面であり(この後のワルプルギス戦や「円環の理」はお話の後始末にすぎない)、キュゥべえによる最後の「タネ明かし」にあたるこの場面で、最後の「営業のテーマ」が流れるのは必然とも思っていたのだが、この文章の「最後」に劇場版に触れておくと、さすがに映画で画面サイズを変更するとかいうふざけた演出はできなかったようだし、さらになぜかBGMも変更されてしまい、ここで書いた要素はほとんど削がれてしまっていたのであった。そんなの絶対おかしいよ。


 余談だが、この場面は(も)、DVD版の段階で、テレビ版からいろいろと修正が加えられている(画像はDVD版)。特にキュゥべえが発する光線が、赤一色からレインボーに、カッチリした同心円から不安定な円に、それぞれ変更されていて、DVD版のほうが派手ではあるが、まっすぐこちらに向かってくる圧迫感のようなものは、テレビ版のほうがよく感じられた気がする。
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