キャラと役者の境を手探る「てさぐれ!部活もの」第2話

「てさぐれ!部活もの」は、CGの制作期間の短さを活かしたプレスコアドリブアニメという大枠はいつもの石舘作品だが、本作が「gdgd妖精s」「直球表題ロボットアニメ」と異なるのは、コーナーを変えず、小道具を持ち出さずに、ひとつの映像の枠の中でトークそのままに声優によるアドリブへ移行している点である。

 声優によるアドリブは、「gdgd妖精s」では「アフレ湖」、「直球表題ロボットアニメ」では「資料館」と、明確に分けられたコーナーで使われていた。両者とも小道具を使う大喜利であり、各話最後に配置されていたこともあって、おまけの楽屋裏のような(本来の意味での「大切り」のような)趣のあるコーナーだった。台本のあるアニメーションと、「中の人」が前面に出る大喜利はカッチリと分けられていて、場面転換とともにキャラクターの機能は変化し、視聴者は「アドリブOKのコーナー」を安心して眺められる。

「部活もの」も、これまでと同じく、複数のキャラクター(今回は4人)がグダグダと喋るところから始まる。まず「定義」を確認し、それから逸脱を目指していく、極めて全うな構成である。お題はタイトルの通り「部活」だ。キャラクターは部活のあるあるネタをダラダラと喋っていく(キャラクターレベルで「素」の会話が繰り広げられるなか、一人だけカメラに向かって見得を切る(キャラクターレベルで「演技」している)高橋葵の動きが気になる)。が、トークが中盤に差し掛かると、部長の鈴木結愛がアドリブ開始の号令をかける:「○○部のイメージを共有したところで、新しい○○部を考えてみよう!」。本番開始、ここから急にキャラクターは薄くなり、中の人の人格が透けて見えるようになる。

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キャラクターにも「素」と「演技」がある。

 このアドリブコーナーへの導入は、鈴木の号令と効果音が入るだけであり、場面そのまま、映像ではそれまでの「台本あり枠」と同じキャラクターが喋っている。特別な小道具は持ち出されず、あくまでトークの流れ中で、互いにボケをかましあっているだけ。ヒマを持て余した部室内でありそうな会話だ。つまりアドリブだろうがプレスコだろうが関係なく、これはフィクション内でのキャラクターの会話なのである。視聴者は制作の都合を読み込む必要は一切ない。いかに声優ラジオに聞こえようと、プレスコ収録に思えようと、あの作品で喋っているのは西明日香ではなく鈴木結愛である。だから漏れ聞こえるクスクス笑いは、キャラクター(鈴木と佐藤と高橋と田中)のクスクス笑いなのである。女子高生がだべっていたらクスクス笑いくらいするだろう。なぜ声が被るのがいけないのか。コーナーを区切らなかったことで、キャラクターの機能はそのままに、しかし「素」と「演技」が切り替わるかのような、微妙な緊張感が生まれているわけだ。

 特に第2話で良かったのが、鈴木結愛が新入生の田中心春の名前を忘れるところ。鈴木が「他に誰か?」と話を振り、田中が「はい!」と手を挙げると(口を挟もうとしている発言前の演技が良い)、鈴木は「えーっとあなたは誰だ……」と、田中の名前を忘れている(ここの表情も良い)。これだけでも十分に面白いが、しかしちょっと考えてみると、ここまでは実際に有り得る展開であると気付く。というか、新入生の名前を覚えられないことこそ、すばらしく部活あるあるな事態ではないか。だがボケはここで終わらない。秀逸なのが、「ごめん!」と謝る鈴木に、隣に座る佐藤陽菜が「陽菜!?」と突っ込んでから「あっ陽菜は私だわ」とボソッと呟く、このボケの2段目。これは凄い。こればっかりは普通は有り得ないのである。さすがに自分の名前を間違えて他人に呼びかけるというのは気持ち悪すぎて想像できない。そしてトドメに「あっ陽菜は私だわ」。さて、ここで「私」とは誰のことか?

 鈴木の天然ボケに被せる流れの掴みといい、ボソッと呟くタイミングといい、その声のトーンといい、この2段目は完璧である。キャラクターと演者の境界が不明瞭になり、キャラクターレベルの「演技」と「素」、役者レベルの「演技」と「素」が、手探り状に交じり合う。しかもこの効果を、あからさまに「中の人」を匂わせることなく(それは「ラジオもの」の枠だ)、「私」という一人称に絶妙な多重性を持たせることで実現している。いや、「gdgd妖精s」での実績を見るに、これ自体が明坂聡美の計算ずくの演技だったのかもしれない……

 ……というわけで、「笑い」を説明するために言葉を費やすと、逆にどんどん面白くなくなっていくのは定石なので、データベースから過去の「笑い」に関する情報を参照して調査すべきである。
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