二重否定のセンター高坂「ラブライブ!」第6話

「センターは誰だ?」と題されたお話。が、にこが仕掛けたスペック競争はアテが外れ、ふさわしい人物を選ぶことができない。6話においてキャラの個性が立ち現れていたのは、カラオケやゲームの点数=結果ではなく、それに臨むメンバーたちの姿勢や行動=過程のほうだった。「結局、みんな同じってことなんだね」のメンバー会議を経て、結論となった穂乃果の提案は「(リーダーは)なくてもいいんじゃないかな」、あるいは「みんなが歌ってみんながセンター」。「センターは誰だ?」という物語はあっけなく否定され、メンバーそれぞれがセンターへの期待を昂らせる。

 だがすぐに雲行きが怪しくなる。屋上に向かう途中、海未は「(リーダーは)もう決まってますよ」などと言いはじめ、真姫もそれを認めたかのような物言い。確かに、「リーダーなし・みんながセンター」という「結果」ではなく、そこに至るまでの「過程」に目を向ければ、決定打がない中でメンバー全員を納得させた穂乃果の行動はまさにリーダーにふさわしい…とは言える。が、直後のライブパートでは、けっきょく「みんながセンター」と言った本人がどセンターを確保していて、なんとなく釈然としない感覚と、センターに居座る穂乃果の強烈な印象が残る。

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どう見ても「みんながセンター」ではない。

 そもそもこのPVは、「みんながセンター」の結論とは全く逆に、穂乃果がセンターであることを厭らしいまでに強調する映像に仕上がっている。「センター」とは、要するに画面の中心にいる人物のことであって、たんに位置を指し示す言葉だ(と、ここでは考えることにする)。この時点のμ'sは7人であり、奇数なのだから必ず中心=センターに立つ人物ができあがる。PVの最初、ひとり立っている穂乃果が手招きをして、両側からメンバーを呼び寄せるのが象徴的だ。ひとりで立っているだけではセンターでも何でもないが、その両側にメンバーを配置することで、自分が立っている場所こそをセンター化している。さらに、PV前半のソロパートでは、海未とことり、花陽と凛、真姫とにこ、と2人ずつ配置することによって、画面からセンターという概念そのものが排除されている。偶数人の画面には、定義的にセンターが存在しえない。4以上の偶数なら、奇数+奇数の二段構えのかたちでセンターが作れるが、2人では絶対にどうしようもない。つまり、穂乃果以外のメンバーからは、センターの位置に立つ可能性が画面的に封じられている

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ひとりではセンターでも何でもない。だがメンバーを招き寄せることで、その位置がセンターになる。

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偶数人(特にふたり)では、「センター」という場所自体がない。右のカットが切り替わると、にこと真姫のあいだに穂乃果が割って入ってくる。穂乃果が入ることで7人の画面になり、よってそこがセンターになる。

 第6話のPVは、センターとしての穂乃果を強烈に見せつける映像に仕上がっている。前半では仲間を呼び寄せ、後半では彼女自身が仲間のあいだに割って入ってセンター化した映像は、メンバーあってのセンターだと示しているとは言えるが、しかしどう考えても「みんながセンター」ではない。この「みんながセンター」という言葉自体、「センターは誰だ?」の物語を否定することで、穂乃果をリーダー的な存在に見せる能動的否定の仕掛けであった。だがその直後に、メンバーに「リーダーはもう決まっている」と言わせ、PVでも結局センターに陣取る。「穂乃果がセンターを否定する」という結論を、自分で更に否定している。

 ここでPVという、第6話に特異な形式を考慮しなければならない。PV終了後、場面がその映像を見ている絵里に切り替わったことが示すように、PVは明確に劇中映像であり、物語内に時間を持っていない。それは既に撮影された映像だ(物語内にカメラを持ち込んだAパートが、このことを意識させる)。このPV=物語外映像という舞台が、穂乃果の否定を物語レベルから引き上げる。穂乃果は「センターを決める物語」の否定としての「みんながセンター」を更に否定するが、この動きは結局のところ、更に上位の物語の枠組み:「「「センターは誰だ?」の物語を否定する物語」を否定する物語」を呼び込んでしまう。物語の否定は、「物語を否定する物語」に回収されてしまう。だから、能動的否定によって映像の中心=センターに立つためには、自身の物語内の決断を、物語外映像=PVという舞台で再び否定しなければならない。彼女はお話の中でセンターの位置に立つのではない。映像上にセンターとして顕現する。

 物語からPVに移行する=物語から離脱する直前、穂乃果はカメラ目線で「さあ、始めよう!」と宣言する。以前の記事で書いたように、階段の段上という場所を考えるに、これは物語内のキャラクターに向けられた言葉ではない。サブタイトルのお話を壊し、これから更にその否定をも破壊しようとするキャラクターが、こちらを向いて「さあ、始めよう!」と宣言する。この瞬間に、彼女は物語内のいちキャラクターから抜けだして、映像の中心=センターつまり見る者にとってのアイドルとして立ち現れる。物語内の自分すらをも否定する、この能動的二重否定。6話のPVが圧倒的な印象を残すとすれば、それは穂乃果の二重否定が、彼女に物語内に留まらないアイドル性を付与しているからだ。物語などどうでも良い。そんなものは彼女が壊した。あとはただ、歌って踊るその存在に感じ入るのみ。

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戦慄のカット。

 ここでは第6話の物語を「センターは誰だ?」のタイトルと結びつけて考えたが、実際にはもうひとつ、「リーダーは誰だ?」というお話が並行して展開している。そもそも「センターは誰だ?」のお話は、希が「穂乃果ちゃんってどうしてμ'sのリーダーなん?」と問い、それを受けたメンバー会議の場で、にこが「リーダーが代われば、必然的にセンターだって代わるでしょ?」と言うことで、「リーダー」と「センター」を繋げてしまったことから始まっている。そして第6話においては、穂乃果はセンターの位置には立ったが、リーダーであると明示されてはいない。海未が「もう決まってますよ」と曖昧な言葉で流してしまったこの問題は、物語的にリーダーとして扱われながらも、ぜんぜんリーダー的な行動をしない穂乃果が、最終的には「最低化」するところまで解決されない。
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