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「ラブライブ!」再放送時のツイートまとめ+α

再放送時のツイートを加筆修正してまとめたものです。
基本的にブログ記事と同内容ですが、言葉の運びがうまくキマったこともあったので、メモ代わりにまとめておきます。

1話
アバンでこの作品の勘所は出揃っている。一、「昨日」と限定するナレーション。なぜ「今朝」でも「さっき」でも「あの時」でもなく「昨日」なのか。二、「突然理事長によって伝えられた」と言いながら、張り紙を見てから倒れる穂乃果。彼女は視覚から行動を起こす。この能動性。三、「私の輝かしい高校生活」。特に今までそうだった描写はない。彼女は13話かけてここに向かっていく。このことは、初っ端の「急に歌う」「目を開く」「走りだす」の3つの動きに、すでに現れている。
OP開けで掛けられる言葉、「ついにおかしくなっちゃったのかな」「穂乃果ちゃん大丈夫?」。まったく大丈夫ではない、頭のおかしい女だからこそ、アイドルになれる。
妹に「時間差すぎ」と突っ込まれているからこそ、穂乃果の反応が「ない」ことに引きつけられる。アルバムを見た後、あるいは部活申請が却下された後。
最後の「やるったらやる」は、キャラクターとしての穂乃果であると同時に、冒頭で「昨日」と言ったナレーションの穂乃果の発言にも聞こえる。嘘くさいライブパートが、両者を接続する。
アライズのように物語内でアイドルなのではない。作品を動かすという意味で、映像のレベルでアイドルになる。
あのタイミングで歌い出したことで、穂乃果は物語内ではなく映像レベルの主人公として現れうる存在、つまりアイドルとして現れ出た。ただアイドルをアイドルとして描くのではなく、「結果としてアイドルに見えてしまう」のだから痺れる。
1話のラストカット、「やるったらやる!」と宣言する穂乃果には、なにか別格の力強さを感じる。ここで「昨日」とか「最高のアイデア」とか言っていたナレーションを思い出すと、カメラ目線で作品の外側に宣言する姿が、「語り手のレベルに立つ穂乃果」の声と重なってくる。
1話は過剰なほど穂乃果の動きで満たされている。この過剰さが映像を物語から奪いとる(ダンスは過剰な動きの最たるもの)。穂乃果は「どうすればいいの」以下虚構レベルの高いライブパートを踊ることで、物語内キャラクターの位置から引き上げられている。
この操作を、映像のメタ的な仕掛けとか虚構内虚構設定とかではなく、自分の動きで、いきなり踊りだすことによって、「そう見えてしまう」ことを成し遂げてしまっている。だからこそ惹きつけられるし、なんかもう圧倒的なものを感じたんではないか、と思う。
このことをしつこく書いてしまうのは、いろいろな作品に「物語的にはアイドルのはずなのに、視聴者としてはただの萌えキャラにしか見えない」的なものを感じたから。アイドルを描くことと、アイドルのお話とか芸能界モノを描くことは別だ。

3話
彼女たちにとって、ライブは「練習の成果を披露すること」ではなくなった。「いま・ここにいる・この思いを」伝えること。「いま・ここにいる・この思い」を伝えるには、客や応援の有無に関係なく「いま」動かなくてはならない。これが穂乃果たちの「ライブ」であり、「リブ=生きざま」でもある。

4話
3話で穂乃果の「いま」性が強調されたのを受けて、4話の凛と真姫がアイドルを断る理由は「過去」と「未来」。それを象徴するのが、和菓子屋で花陽が3回扉を開ける動作。妹と海未のあれは一見ただのおもしろシーンだが、一年組の事情が乗り越えられる可能性が示される。
しかしそれを知っているのは花陽だけで、花陽は自分からは屋上に行かない。凛も真姫も自分からは行かない。花陽を引っ張ることで、結果的に3人とも屋上に行くことができる。
ここで突っ込みどころ、屋上に着いたらいきなり夕方になっている。これは明らかに「花陽の決意」をドラマチックに見せる効果だが、これを「凛と真姫の二人がかりでも花陽を運ぶのに相当時間がかかった」と、ありのままに受け取ってみる。そういう物理法則なんです。
一年組は3人揃わないと屋上に行けない、という関係性が、何か物理法則のように、絶対的なものであるかのように見えてくる。逆に言えば、3人をいかに画面内に揃えるか、が4話のキモになる。
割烹着姿の穂乃果は、家業を継ぐ「未来」を理由にアイドルを断った真姫の反面に見える。穂乃果は既に家業を手伝って労働しているが、真姫のような深刻感は全くない。花陽の「いろいろあるんだなあ」という、わりと共感できる言葉が、その事情を突破している穂乃果の姿を際立たせる。
穂乃果が店番をしているから、花陽は廊下で迷う。これに加えて、穂乃果のPCが「肝心なときに限って」壊れていることが、ことりにPCを取りに帰らせている。この条件があって、花陽は妹と海未の姿を目撃するし、ライブ動画を一緒に見ることができる。ガチガチな構成。
ここで注目したいのは、花陽が扉を開いて「起動」したものがライブ映像ではなかったということ。3話では、花陽はライブを起動する大役を担ったが、この場面ではそれほど重要な役割は果たしていない(PCも持っていない)。
花陽が起動し、μ'sの「ライブ」として目撃されるべきものは、過去のパフォーマンスの記録ではなく、「いま」活動している穂乃果たちの姿だった。ライブ動画は、花陽の気持ちを動かすというより、一年組を結ぶ劇伴装置としての役割を果たすことになる。

5話
にこはいったん穂乃果たちを拒むが、最後には割とあっさり入部を認める。これは穂乃果に押し切られたから、というのでは面白くないので、「穂乃果たちが入部に足ると判断できたから」だと考えてみる。
初めに拒否した理由は、「ふさわしいキャラを作っていないから」。いかにも言い訳がましいが、しかしにこは実際に「にっこにっこにー」をやってみせ、「矢澤にこ」という強烈なキャラを見せつける。にっこにっこにーがキャラなのでなく、ああいうことをやってしまう「矢澤にこ」こそがキャラ。
にこは「客がアイドルに求めるのは、ふさわしいキャラを演じること」だという。このアイドル観はかなり冷徹であり、例えば同じアイドルオタクの花陽からは出てきそうもない言葉。その花陽と穂乃果のやりとり「花陽ちゃん、キャラ変わりすぎ…」を見るに、穂乃果たちはそれができていなかった。
花陽がキャラ違いな行動を見せるのは「伝説のアイドル伝説」がきっかけ。この語呂が妙に印象に残るので、この二重性というか自己言及性みたいなものを強引に読み込む。「伝説のアイドル伝説」の二重性は、「キャラ作りをするキャラ」としての矢澤にこを呼び込んだ。
にこは自身のアイドル観を説明し、自分でそれをやってみせることで、穂乃果たちにこの条件をクリアしろと言っている、と考える。入部したいなら、客を楽しませるようなキャラを作ってこい、と。いわばこれは入部試験<アイドルゲーム>なのだ。
穂乃果は回想からこのことに気づく。かつて穂乃果がかくれんぼというゲームを使って海未を仲間に引き入れたように、にこは<アイドル>というゲームを仕掛けている、と。だから穂乃果は、「矢澤にこ」というキャラに対して「高坂穂乃果」というキャラで応える。穂乃果らしい強引さを見せつける。
にこの言う「客」とは、物語内の観客だけでなく、視聴者=そこにいない(が見ている)客も想定しているように思える。そう考えると、にこと穂乃果のやりとりは「いかに第5話を客が求めるような展開にして笑顔にさせるか」という次元での暗闘に見えてくる。(結果として、これ以上ない着地だった)
「キャラ作り」とは、自身の行動原理を他者の視線に委ねる(自分が他者からどう見えているかを自覚する)ということ。にこは一貫して他者からの視線に自覚的な存在で、このアイドル観はプロのアイドルとしてはまったく正当である。さすが矢澤先輩。
だが、穂乃果的なアイドルの在り方はそうではない。穂乃果の活動は「いま・ここにいる・この想い」を伝える自己目的的なものであり、他者からの評価は二の次である。この意味で、穂乃果とにこは作中で最も対照的な人物といえる。
しかし穂乃果も他者の視線をまったく意識していないわけではない。特に1話で歌い出したのは象徴的で、当ブログではあれを穂乃果が作品を自覚的に起動した瞬間として捉えた。ただ、ここで穂乃果が想定している他者は、物語レベルの客ではないように見える。
フィクションにおいてアイドルという題材がスリリングに見えるのは、他者の視線に依存する存在である点が、アイドルと作中キャラクターで重なっている(見る者がなければ、両者とも現れえない)から。「キャラ」と「カメラ」を持ち込んできた5話6話は、ギリギリを攻めてる感があって面白い。
劇中のアイドルが結局いちキャラクターにすぎないのに対して、作品を動かすキャラクターは、見る者にとってアイドルたりうるのではないか……。

6話
一見、ただキャラの個性を見せる回に見せかけて、それとは全く関係なく圧倒的な存在感を見せつけた穂乃果が、こちらを向いて「さあ、始めよう!」と宣言する。その瞬間に、リーダーとかスペックとかはもはやどうでもよくなる。
希は「どうして穂乃果ちゃんがリーダーなの?」と聞き、穂乃果も「そういえば……」的な反応を見せるが、別に今まで穂乃果がリーダーだと明示されたことはない。希の発言は、逆に穂乃果がリーダー的な存在であることを浮き彫りにする。
にこは「この子はリーダーにまるで向いてない」と言い、スペック的には確かにそんな感じもするが、今までの彼女の在り方は、実は誰の目にも(もちろん視聴者にも)リーダーであるかのように見えていた。
6話は、カメラ、センター、リーダー等、アイドルっぽい要素をいろいろぶち込んできた。そのことが反射的に、特にそれらを気にかけない穂乃果の魅力を際立たせている。アイドル的であることへの否定が、穂乃果の求心力=アイドル性の根拠になっている。
穂乃果と絵里の対照として、(祖)母の写真。穂乃果は母親のスピーチ写真(生徒会長?)を見て、「輝かしい高校生活」に向かう。絵里は祖母の写真の通り、バレエをやったらしい。このへんからも、在り方の決定的な違いが見える。
「センターは誰だ?」の物語をぶち壊す「リーダーなし・みんながセンター」。さらに直後のPVで、その結論も否定して結局センターに陣取る。穂乃果の二段階の肩透かし、この能動的二重否定。
このPVは悪意的で面白い。穂乃果以外のソロパートを2人ずつ映すことで、画面上にセンターの位置を作らせない(偶数人に中心はない)。一方穂乃果は、自分の両側にメンバーを呼び込んだり、メンバーの間に割って入ったりして、自分の場所をセンター化する。「みんながセンター」が否定されている。
PVに移行する=物語を否定して離脱する直前、穂乃果はカメラ目線で「さあ、始めよう!」と宣言する。階段の段上という場所を考えるに、これは物語内のキャラクターに向けられた言葉ではない。この瞬間に、お話とかはいっさいどうでも良くなり、歌って踊るその存在にただ感じ入るしかなくなる。

7話
安易な脚本だったら、絵里は落選したことを非難されて、それが嫌になってやめた、でも本当は踊ることは好きなんだ、みたいな感じになる。でもそうならない。しかもμ'sに「辛くないの?」とか言っている(つまり絵里は辛かった)。「やりたいこと=ダンス」とは思えない。
スポ根っていうのは、基本的には、勝利のために努力することなんだろう。未来の為に苦行に耐え、過去の努力に意味を与えるために試合では全力を尽くす。勝利の因果関係=物語の構築。それが熱い。これはアイドルという題材と相性抜群だが、しかしラブライブ!はそうではなかった。
ラブライブ!は、ランキングや投票といった要素を持ち込んでおきながら、結果を隠した。だから試合が成立しない。普通、いま順位や実力がどのへんで、ライバルは誰で、それに対してどう闘っていくのか、みたいなお話を作りたくなる(それか適当な日常系)。でもそうしなかった。
1話で穂乃果が歌い始める瞬間に痺れるのはなぜか。あの動きには、過去も未来も結果も何も関係がない。いま動くために動く。カメラはその瞬間を捉えるために回りこむ。フィクション上のただの画が、存在感をもって現れる。運動する、その瞬間の、その動き。

8話
少なくとも、絵里の行動から「彼女がずっとアイドルやダンスをやりたがっていた」と考えるのは、無理があると思う。
じゃあ絵里は何がやりたかったのか?という話になるが、それよりも、穂乃果が手を差し伸べたあのカットが印象に残ったのでそれを読み込む。穂乃果の「一緒に歌ってほしいです」がいかに唐突か。この唐突さこそが作品を動かしている。
希の「特に理由なんか必要ない、やりたいからやってみる」を、この唐突さ=穂乃果側の行動原理を指した言葉として聞く。この言葉と絵里とのやりとりによって、第8話は「アイドル」の定義を拡張しているように思える。
要するに、「歌やダンスで観客を魅了する存在」でありながら、それに加えて「やりたいことをやる、行動することによってひとを惹きつけるする存在」というふうに。
絵里と希の対決シーンに微妙な緊張感があるのは、両方とも言ってることが何かズレてる感じがあるというか、真相をそのまま言葉にしてしまうことを巧妙に避けているように見えるからだろう。

9話
9話には2つのアキバ像が出てくる。にこ的=他者の視線を集める市場と、ことり的=自身が変わっていくことを受け入れてくれるワンダーゾーン。両者は服装(変装とメイド服)や反射する視線(サングラスとコーヒー)で対照されている。μ'sはメイド服ライブによって後者を選択する。
このアキバ像の選択が、彼女たちのアイドル像の選択と被る。アイドルは他者の注目を集めるべき存在なのだから、何でも受け入れてくれることを前提にするなんぞ、プロならば虫がよすぎる。しかしスクールアイドルというアマチュア的な在り方が、矛盾あるこの魅力的なアイドル像を可能にする。
μ'sは「どんなものでも受け入れてくれるワンダーゾーンで、思い切って変わっていくこと」を肯定する。この在り方は、今まで見てきた彼女たちの魅力をよく表しているように思う。パフォーマンスという結果ではなく、9話にわたる活動の過程が魅力的なのだった。
ということは、ここで言う「ワンダーゾーン」は、作中のアキバという街から、彼女たちが活動してきた場所、すなわち作品そのものに拡張できるのではないか。フィクションという場こそ、キャラクターが活動し現れることができる、最高のワンダーゾーンなのではないか。
本来アイドルは他者の視線に依存する商業的な存在であり、自己目的的に・部活的には活動できない。そこがダンスや音楽と決定的に違うところで、だから「アイドル部」は本来有り得ない(μ'sも「研究部」)。しかしμ'sの魅力は、自分たちのために思い切って活動しているところにあった。
穂乃果的な在り方、「いま・ここにいる・この思い」を伝えるアイドルは、フィクションだからこそ存在を許される。

11話
メンバーのセリフ「いつもそうやってきた」等々に表れていたように、今回の穂乃果の行動は、特に暴走というべきものではない。穂乃果が倒れたのは、結局のところくじ引きをハズしたことと天気が原因なのであって、要するに運が悪かった。
3話でライブの定義を「いま・ここにいる・この思いを伝えること」に拡張したように、ライブとは単にステージ上で歌と踊りを披露することに留まらないように思える。11話は、穂乃果の能動性が最大限に発揮されていたという意味で、「最高のライブ」に見えた。
確かに、穂乃果は倒れ、ライブは失敗した。しかしそれは結果がそうだったに過ぎない。そこに至るまでの過程、危うさを抱えながらも前進する姿は、穂乃果の魅力がよく現れていたし、作品の魅力にも直結しているところだと思う。
穂乃果の暴走感を強調したいのなら、三年組を機能不全にする必要はない(むしろ逆)。くじ引きという唐突な要素が三年組(にこは微妙だが)をもダメにすることで、ツッコミ役を放棄しない海未がそれでも機能しない理由=ことりの不調が、なにか重大な問題として描き出される。
くじ引きというのは、普通に考えれば安易な手法だが(経過に関係なく結果だけを操作できるから)、「ラブライブ!」の場合、過程/結果の緊張関係が作品のキモであった(と当ブログでは読み込んだ)ために、実に効果的に機能していたと思う。

12話
12話。ラブライブ出場断念と廃校阻止の実現で、お話的な到達目標が次々に消去される。だが穂乃果はわりとあっさり復活するし、「気を取り直してがんばろう」と驚くべき発言。この結果軽視の在り方こそ、彼女が見せてきた魅力なのだった。
しかし、何かの目的のためではない、アイドル活動そのものが彼女の「やりたいこと」だった…というような単純な展開ではない。ラスト、「どうしたいの?」と問われた穂乃果は「やめます」と答える。つまりアイドル活動さえ、彼女にとっては第一義ではなかった。
穂乃果は「これが9人の、最後のライブになるんだから」を受けて「やめます」と答えた。「ラブライブ出場」や「廃校阻止」のお話が終わっても進み続けられたが、「9人のライブ」が終わることだけは許せなかった。彼女は「9人の終点」から逃れるために、逆説的に「やめる」と言いだす。
穂乃果は物語に囚われないような能動性を見せることで、魅力的な「過程」を作ってきた。「自分が何もしなければ、こんなことにはならなかった」のやりとりは、1話で歌い出すことで作品を駆動した彼女が言うからこそ、痺れる緊張感を醸していたと思う。
ことりが穂乃果の影響を排除して自身で決断した=穂乃果以外のメンバーが穂乃果のように動き出せば、穂乃果の地位は低下せざるを得ない。
1話でいきなり歌い出すなんていう頭のおかしい能動性は穂乃果にしか示せなかったが、12話にわたる過程を経て、動きを見せ視聴者の視線を集める主人公性=アイドル性は「9人のμ's」にも備わってきていた。屋上のやりとりは、両者のせめぎあいに見える。
ちょっと先取りすると、13話では、穂乃果は最後の能動性を発揮して(「歌うのはラブライブのためじゃない」「新しい夢に向かって駆け出します」)、特別な地位から降りる。だから、彼女たちは「μ'sミュージックスタート」と宣言し、作品はそこで終わる。
屋上のシーンは、「目標を消去してアイドルをやる理由を浮かび上がらせる」といった物語内容の面だけでなく、「アイドルというテーマと映像での振る舞いが連結しているように見えてきたこと」を考えると、より戦場感が高まる。
絵里が主導したラブライブ出場辞退のプロセスがよくわからない(映像に場を持てなかった)ように、12話の時点でも主導権は未だ穂乃果にある。しかし屋上のシーンでは、どうしたいと問われた彼女は「9人のライブ」にこだわり、自分はやめると言いだす。
1話で「I live」と歌ったように、この作品ではいわゆる「ライブ」と「リブ=生きること」が重ね合わされていた。穂乃果が「9人のライブ」の終わりを否定したことは、「I」から「9人」への主語変更も相まって、作品の駆動原理が穂乃果からμ'sに移りかけている象徴に見える…かもしれない。
「叶え!私『たち』の夢」(1話)でいきなり「I live」と歌い出したひとが、「9人のライブ」の終わりを拒否し(12話)、「μ'sミュージックスタート」(13話)と宣言することで、この作品は終わる。動きを見せ映像を動かす能動性=アイドル性の移行。このせめぎあい。

13話
13話では、穂乃果にはいろいろなひとが声をかけてくるが、直接的に復帰を促すような言葉は一つもない。絵里が手を差し伸べても、それを握り返す瞬間は映されない。この作品はあくまでも能動的な動きによって駆動されている。だからこそ、海未は自分から歌い出す。
穂乃果はライブで「その夢が叶いました。だから、私たちはまた駈け出します、新しい夢に向かって!」と叫ぶ。この論理。穂乃果によれば、「夢が叶うこと」は、「新しい夢に向かうこと」の理由であり、「結果」は「終点」ではなく、新たな「過程」の「起点」となる。
当ブログの読みでは、穂乃果は物語(原因-結果の因果関係)に縛られない、魅力的な「過程」をつくるキャラクターだった。彼女が新しい「過程」に向かってのスタートを宣言したとき、映すべきものを失った作品は必然的に終わる。
「歌うのはラブライブのためじゃない」は、もちろん作中イベントの「ラブライブ」についての言及だが、この発言は『ラブライブ!』という作品自体への言及にも聞こえる。作中人物でありながら、作品に組み込まれないような強烈な能動性をもったキャラクター。だから、彼女たちはアイドルに見える。
最後のトドメに、自身が動きを見せてきた作品自体からも離脱する、作品を終わらせる能動性。ここに最高に痺れます。
大げさに言ってみれば、偶像を崇拝するのは「それが神や預言者をかたどったものだから」というより「それが美しいからだ」といったほうが説得力があるように、穂乃果がアイドルに見えたのは、物語内でアイドルだからではなく、作品での在り方が私を惹きつけるからではないか、という話です。
放映時は徹頭徹尾穂乃果に拠った見方をしていて、作品の終わりも、穂乃果が「歌うのはラブライブのためじゃない」と言って作品から出て行った、と見立てた。が、いまでは映像を動かす能動性=アイドル性は、徐々にμ'sの9人に伝染していったのではないか、と考えられる気がしている。
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