「桐島、部活やめるってよ」



 映画「桐島、部活やめるってよ」に対して、シネフィル的な人たちが「カメラがぶっ壊されたのに平然としてるのはおかしい」とか「撮影を中断して長々と話し込むなんてありえない」とか「本当に映画が好きなら『ロメロくらい見とけ!』とか意味のないことは言わない」とか「本当にゾンビ映画がやりたいならそもそも『生徒会オブ・ザ・デッド』とかいうダサいタイトルはつけない」とか言って評価を下げているのを散見する(気がする)ので、そしてそれは間違っている(気がする)ので、公開してからだいぶ経つ映画だが少し書いておく。

 この映画に対する最悪の誤解は、「スクールカーストをリアルに描き出した」みたいな、アホみたいに素朴な自然主義的反応である。この映画が描いたのはスクールカーストではなく、その秩序の不可能性だ。頂点のない三角形は三角形ではない=桐島のいないカーストは無効である。上下関係のない場所に人間関係はなく、カーストのないスクールに学園ドラマはない。だから映画部は自らゾンビ化し、未だにその秩序を信じる愚か者を喰い殺すのだ。喰い改めよ!

 だがここにはひとつの仕掛けがある。スクールカースト=必死な部活社会を脱臼させる視線が、映画部のカメラと重なっている「かのように」見えることだ。終盤になるにつれて、映画は映画部の活動の寄り添うようになる。だから観客は映画部(前田だっけ?)が主人公であると思う。スクールカーストとは無関係に、自分たちが本当に好きな活動に打ち込む映画部。いい青年たちだ。しかも彼らはカメラ=視線を持っていて、それが映し出すロメロシーンは、必死な部活連中をゾンビ化した映画部が噛み殺すというものだ。かくして主人公は映画の主題と合体し、この映画での正義になる。だからつい誤解する。でも彼らは映っているから主人公なのであって、映しているから主人公なのではない。

 中盤、バスケ三人組が駄弁るシーン。桐島を待つ必要ないのに何で俺らバスケやってんの?という問いかけに対して、一人は「バスケが好きだから」と答える。だがこの答えは間違いだ。「じゃあお前バスケ部入れよ」と返されてしまう。バスケ好きは「いや、そういうわけじゃないんだけど…」となってしまうわけだが、ここは「部活」の無根拠さを明らかにするいいシーンである。部活をやっている人間は、それが好きだから、それに長けているからその部活に入る、わけではない。「部活」をやりたいから、部活に入るのだ。バスケ部とは、バスケをする部ではない。「バスケ部」をする部なのである。

 これは別にひねくれた見方でもなんでもなくて、世の中みんなそのはずなのである。労働と重ねあわせても良い。労働をしたいから企業に入るわけではないだろう。企業に入って正社員になりたいから入るのだ。このことはみんなわかっているが、他人の前ではもちろん誤魔化す。他者の視線を内面化し、約束事の秩序に参入していくことが「社会化=大人になる」ということくらいみんな知っている。カーストはなくとも秩序があるかのように行動するのが大人のやり方だ。

 さて映画部である。ではそのカーストを斜に構えて見る彼らは「子ども」なのか?ここで冒頭のシネフィル的指摘が生きてくる。実はその指摘自体は正しい。本当の映画好きが、カメラを破壊されて平然としているはずがないのだ。映画をちゃんと愛していれば、「ロメロくらい見とけ!」とかいう、全く無意味なボンクラオタク的発言は、絶対しないはずなのだ。しかしこの指摘から導くべき結論は、映画「桐島、部活やめるってよ」の不備ではない。そういうことをやってしまった映画部の連中は、実は大したことない奴らだったという、この一点である。

 彼らは別に映画が好きだから映画部をやっていたわけではなかったのである。「映画秘宝」を読み、満島ひかりを夢に出し、「鉄男」を見に行ったりして、彼らは必死にシネフィルを気取る。だがそれは全部ウソだったのだ。「映画部」でありたいから、映画部的なことをやっていただけなのだ。つまり、彼らが距離をとっていたはずの「部活」に、見事に嵌りこんでいたわけである。映画のカメラは、「こいつら全員喰い殺せ!」とかダサいことを叫んでいる映画部の連中こそ、実は必死な部活充だったことを映し出す。彼らの「映画部」的な嘘がバレるこの瞬間は、まさに作品のクライマックスである。彼らはまさに桐島カーストの生き残り=ゾンビだったのだ。

 たまに悪評を見るゾンビ後のご高説シーンは、だからこそ成立する。あそこで前田が偉そうなのは、「スクールカースト下位のオタクでも好きな事を見つけてそれを頑張っているから」ではなくて、「スクールカーストという幻想を脱臼しうる視線を持っているから」でもなくて、たんに部活充だからである。「映画部」が撮りそうな映画を妄想の中で撮ったことで、前田は一気に部活世界=スクールカーストの頂点に立ったのだ。ああアホくさ。桐島はそういう「部活」をやめたのだ。

 きっとシネフィル的な人たちは、「わかってる」人間として描かれていた映画部を自分たちと重ねちゃったりしていて、なのにロメロシーンの前後で「わかってる度」がいきなり下がったことが気に入らず、冒頭のようなdisりをしてしまうのだろう。でも映す主体と映される主体の分裂って映画の基本じゃなかったの。

 要するに、文化部の連中なんて、噛み付きたいがためにマニア気取ってるゾンビみたいなもんなんですよ、ってこと。そんなことを描いてしまったこの映画はおそろしくすばらしい。
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